
◆◆◆熊本城築城400年公式ページへ(↑写真をクリックでリンクします。)◆◆◆
【 特定非営利活動法人 行司 】 熊本事務局
住所 :熊本市長嶺西1丁目6-88 ザ・クレイン102号
Tell: 096-213-1070
fax: 096-213-1080
直通:090-3736-0125
熊本と国技相撲の史実の情報発信のブログです。現在の横綱制度って熊本城の本丸御殿の九曜【くよう】の間で生まれました!記録が今でも残ってます。(旧司邸に所蔵分) 私たちNPO行司の日々の活動や熊本の相撲文化(行司)と熊本城の歴史を、史実に基ずき正確にお伝えしていきます。

再春館製薬所様は行司のオフィシャルスポンサー様です。
【当法人の活動は企業スポンサー様と市民ボランティアで成り立っています】
【皆様いつも数々のコメント&御訪問ありがとうございます!感謝致します】
『行司では、協賛してくださる企業・個人様を募集しております』
↑相撲ブログランキングへ・よろしければ協力お願いします。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
2008年04月20日
最終回【熊本県近代文化功労者】23世司家 吉田追風

常陸山(左)と梅ヶ谷(右)に立会いを指導する二十三世吉田追風(中央)
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 最終回
こうして晩年は、しずかに病臥をつづけた23世吉田追風 善門も、
昭和14年9月12日、享年84才で、静かに、この世を去りました。
まさに天寿というべきであり、顧みると、
23世の生涯は実に充実したものであったといえます。
安政3年に生まれ、明治4年16才で家督を継いだが、
明治10年西南役にたずさわった以外ほとんど、
日本の相撲道の興隆に余念なかったといっていい。
人生のすべてを、相撲道に捧げ、時には命をかけて戦い・・・・
この23世 追風によって、近代相撲は完成されたのです。
吉田司家 善門一代にわたって、
横綱の授与を受けた者は、22名におよびます。
墓所は、熊本市坪井町堀端の真浄寺にあります。
昭和14年9月12日、享年84才で、静かに、この世を去りました。
まさに天寿というべきであり、顧みると、
23世の生涯は実に充実したものであったといえます。
安政3年に生まれ、明治4年16才で家督を継いだが、
明治10年西南役にたずさわった以外ほとんど、
日本の相撲道の興隆に余念なかったといっていい。
人生のすべてを、相撲道に捧げ、時には命をかけて戦い・・・・
この23世 追風によって、近代相撲は完成されたのです。
吉田司家 善門一代にわたって、
横綱の授与を受けた者は、22名におよびます。
墓所は、熊本市坪井町堀端の真浄寺にあります。

【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司】
『熊本城築城400年 公式ホームページ』 ←リンクへ
『熊本城築城400年 公式ホームページ』 ←リンクへ
2008年04月19日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十九

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十九
すでに、
この時、足の不自由を、
うったえていた吉田善門は、
昭和10年頃になると老衰が目立ち、
薬餌に親しむようになりました。
その後の記念式典や、
相撲の司家としての参加が厳しく、
昭和12年の大阪国技館の開館式があった時や、
昭和14年には、
後鳥羽天皇の七百年記念敬仰相撲が、
京都大原の山陵前で行われましたが、
23世 善門は、いく事が出来ず、
嫡孫長善をして代行させている。
また昭和12年には双葉山一行が来熊し、
横綱授与式が行われたが、
これも善門に代って長善が執行しました。
善門の嫡子長助は昭和9年1月、
大分連隊区司令官在職中、
父に先だって病歿していたのです・・・。
その二十につづく・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司】
『熊本城築城400年 公式ホームページ』 ←リンクへ
この時、足の不自由を、
うったえていた吉田善門は、
昭和10年頃になると老衰が目立ち、
薬餌に親しむようになりました。
その後の記念式典や、
相撲の司家としての参加が厳しく、
昭和12年の大阪国技館の開館式があった時や、
昭和14年には、
後鳥羽天皇の七百年記念敬仰相撲が、
京都大原の山陵前で行われましたが、
23世 善門は、いく事が出来ず、
嫡孫長善をして代行させている。
また昭和12年には双葉山一行が来熊し、
横綱授与式が行われたが、
これも善門に代って長善が執行しました。
善門の嫡子長助は昭和9年1月、
大分連隊区司令官在職中、
父に先だって病歿していたのです・・・。
その二十につづく・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司】
『熊本城築城400年 公式ホームページ』 ←リンクへ
2008年04月18日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十八

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十八
昭和7年4月20日は吉田家初代家次の700年にあたりました。
そこで4月23日七百年祭が、
熊本市公会堂で盛大に執り行われました。
ただこの日、祭主23世追風 善門が、足痛でその上老齢の為、
嫡子長助が代理をすることになったのは、
やむをえないことであったのでした。
式相撲は嫡孫長ぜ善が行司を司とり、方屋祭、
開口方屋開き、三段構え、神相撲、取組という風にすすめ、
地元熊本市の小学校、中学校生徒によって行われました。
代行とはいえ、嫡子長助の行司は大変すばらしく、
23世も、大変喜ばれたに違いありません。
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司】
『熊本城築城400年 公式ホームページ』 ←リンクへ
昭和7年4月20日は吉田家初代家次の700年にあたりました。
そこで4月23日七百年祭が、
熊本市公会堂で盛大に執り行われました。
ただこの日、祭主23世追風 善門が、足痛でその上老齢の為、
嫡子長助が代理をすることになったのは、
やむをえないことであったのでした。
式相撲は嫡孫長ぜ善が行司を司とり、方屋祭、
開口方屋開き、三段構え、神相撲、取組という風にすすめ、
地元熊本市の小学校、中学校生徒によって行われました。
代行とはいえ、嫡子長助の行司は大変すばらしく、
23世も、大変喜ばれたに違いありません。
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司】
『熊本城築城400年 公式ホームページ』 ←リンクへ
2008年04月16日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十七

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十七
こえて大正9年1月には再建国技館の地鎮祭を自らつとめ、
開館式には方屋祭、開口方屋開きも執行した。
横綱手数入りは彼の行司によって横綱大錦卯一郎が、
露払い横綱鳳谷五郎、太刀持横綱栃木山守也という大物をしたがえて堂々たる所作を見せた。
大正15年10月には明治神宮外苑相撲方屋開場があった。
この日は摂政官殿下の台覧のもとに行われ、
老いたる23世吉田追風は長い相撲道奉仕の中でも忘れられぬものがあった。
地鎮祭から方屋祭、並びに開口方屋開きは嫡子長助が行ったが、
三段構えは彼自らが行った。
この日の3段構えは横綱常の花寛市と西ノ海嘉次郎であった。
昭和5年、彼は75才であった。この年4月29日の天長節に相撲節会が行われた。
この日の三段構えは横綱常の花と同じく宮城山で、
その行司を彼が親らとった。老身とはいえ足さばき身のこなし実に美事にそれをはたした。
翌昭和6年も同じく4月29日の天長節に相撲節会が行われた。
この日の三段構えは玉錦、大の里で、彼はその年も76才で立派に行司をつとめている。
その十八につづく・・・・・・
こえて大正9年1月には再建国技館の地鎮祭を自らつとめ、
開館式には方屋祭、開口方屋開きも執行した。
横綱手数入りは彼の行司によって横綱大錦卯一郎が、
露払い横綱鳳谷五郎、太刀持横綱栃木山守也という大物をしたがえて堂々たる所作を見せた。
大正15年10月には明治神宮外苑相撲方屋開場があった。
この日は摂政官殿下の台覧のもとに行われ、
老いたる23世吉田追風は長い相撲道奉仕の中でも忘れられぬものがあった。
地鎮祭から方屋祭、並びに開口方屋開きは嫡子長助が行ったが、
三段構えは彼自らが行った。
この日の3段構えは横綱常の花寛市と西ノ海嘉次郎であった。
昭和5年、彼は75才であった。この年4月29日の天長節に相撲節会が行われた。
この日の三段構えは横綱常の花と同じく宮城山で、
その行司を彼が親らとった。老身とはいえ足さばき身のこなし実に美事にそれをはたした。
翌昭和6年も同じく4月29日の天長節に相撲節会が行われた。
この日の三段構えは玉錦、大の里で、彼はその年も76才で立派に行司をつとめている。
その十八につづく・・・・・・
2008年04月16日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十六

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十六
肥後相撲国技館は、(←ブログ内リンク)
その後、大正6年5月には十九世追風の百年祭をいとなんだほか、
その名のように国技相撲の振興に多くの貢献しました。
大相撲の熊本巡業は、いつもここで行われ、
その当時の熊本巡業は、
熊本場所として、合計6日間も開催れていたそうです。
肥後相撲館は相撲の吉田司家の住居する熊本に、
もっともふさわしい施設として、広く関係者に喜ばれました。
太刀山、大木戸らの横綱の後をうけた、鳳、西の海、大錦、
栃木山、二代目大錦、宮城山、源氏山、
常の花などがこの相撲館で新横綱を張り、
また、相撲巡業が無い時は、熊本県民の映画館と愛されました。
しかし、この相撲館は昭和3年12月、
熊本市の開発計画で市電(路面電車)敷地となるため
解体しなければならなくなってしまい、
大正二年の開館から、数えて僅か15年間の歴史で幕を閉じました。
関係者や熊本市民に惜しまれながら、
郷土熊本の発展の為の廃館だったのです。
今は無き肥後相撲館の場所は、現在の熊本市の辛島公園周辺でありました。
時代が、どのように移り変わろうとも、この史実は、
熊本市民として、相撲ファンとして心に留め置きたい所です。
その十七につづく・・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
2008年04月15日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十五

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十五
縦 横 の 活 躍
明治42年6月には東京の東両国の国技館が新築落成したので、
熊本から出かけて方屋祭ならびに開口方屋開きを行っている。
また両関常陸山、梅ヶ谷の古式相撲を司った。
明治43年1月9日には皇太子殿下(のちの大正天皇)の台覧相撲が行われ、
この時も彼は横綱常陸山、
梅ヶ谷の古式相撲を司っている。
大正二年10月には肥後相撲館を設立した。
そして出来上がったばかりの相撲館で10月11日に、
十三世追風の三百年祭が厳修された。
その十六につづく・・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
2008年04月13日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十四

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十四
善門は、この文書を読みあげると、
その文を、協会取締の雷権太夫に交付した上、
さらに懇々として相撲の由来から説きおこして、
相撲道のため相撲関係者の心構えと責任を説くところがあった。
遠く九州熊本にありながら、敢てこういう態度をとるに至ったのも、
長い相撲の伝統を一身にあつめ、
またその興廃の責任を自己の一身にかけていたからこその、
おのづからなる憂慮の発露であった。
その十五につづく・・・・・・
その文を、協会取締の雷権太夫に交付した上、
さらに懇々として相撲の由来から説きおこして、
相撲道のため相撲関係者の心構えと責任を説くところがあった。
遠く九州熊本にありながら、敢てこういう態度をとるに至ったのも、
長い相撲の伝統を一身にあつめ、
またその興廃の責任を自己の一身にかけていたからこその、
おのづからなる憂慮の発露であった。
その十五につづく・・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
2008年04月13日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十三

訓 告
わが国相撲道は神代に淵源し、
垂仁天皇の御字に始めて叡覧の事あり、
聖武天皇の朝に至って相撲節会の恒例を設定し、
典儀式礼ことごとく備わる。
爾後奕世高貴の眷注(ケンチュウ 目を掛けて戴く)を辱うし、
国民の好尚を担い、以て今日に至れり。
それ、わが国は尚武を以て世界に冠絶す。
文治に処するも亦武備を忘るべからず。
相撲の道は武のみちなり。
これを以て士気を淬礪(サイレイ 砥ぎ磨く
この場合は、自分の修養に努める)
すべく、これを以て民風を鼓舞すべし。
この道の貴ぶべきこと、実に此の如し。
あに他技の比すべきものならんや。
故に力士たるものは宜しくその由来する所を知り、
義理を重んじ品位を保ち、
益々技能を練磨して斯道の発揚を務め、
もって国家に貢献する所あるべきなり。
明治四十一年六月五日
二十三代 吉 田 追 風
垂仁天皇の御字に始めて叡覧の事あり、
聖武天皇の朝に至って相撲節会の恒例を設定し、
典儀式礼ことごとく備わる。
爾後奕世高貴の眷注(ケンチュウ 目を掛けて戴く)を辱うし、
国民の好尚を担い、以て今日に至れり。
それ、わが国は尚武を以て世界に冠絶す。
文治に処するも亦武備を忘るべからず。
相撲の道は武のみちなり。
これを以て士気を淬礪(サイレイ 砥ぎ磨く
この場合は、自分の修養に努める)
すべく、これを以て民風を鼓舞すべし。
この道の貴ぶべきこと、実に此の如し。
あに他技の比すべきものならんや。
故に力士たるものは宜しくその由来する所を知り、
義理を重んじ品位を保ち、
益々技能を練磨して斯道の発揚を務め、
もって国家に貢献する所あるべきなり。
明治四十一年六月五日
二十三代 吉 田 追 風
その十三につづく・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
タグ :桐井沙知
2008年04月13日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十二

相撲協会に訓告
大阪相撲協会の事件の少し前、明治41年5月、
彼は近頃相撲が隆盛になってきたのを、喜ぶと共に、
一面その人気の傾向性に、一抹の不安を感じて
当時の東京相撲の視察に出かけました、
実際に取り組みを見たり、また関係者の意見を聞いたりして、よくよく観察すると、
はたして相撲隆盛の影に墜弱の風がきざしているのでした。
23世善門は、いまのうちに修正させるべきだと思い、
明治41年6月9日九段の靖国神社の拝殿で相撲協会年寄、
および幕内力士、幕下十両以上の力士、
ならびに足袋免許以上の行司の総参集をもとめて、
一同列座のところで彼は次のような訓告を発している。
その十三につづく・・・・・
大阪相撲協会の事件の少し前、明治41年5月、
彼は近頃相撲が隆盛になってきたのを、喜ぶと共に、
一面その人気の傾向性に、一抹の不安を感じて
当時の東京相撲の視察に出かけました、
実際に取り組みを見たり、また関係者の意見を聞いたりして、よくよく観察すると、
はたして相撲隆盛の影に墜弱の風がきざしているのでした。
23世善門は、いまのうちに修正させるべきだと思い、
明治41年6月9日九段の靖国神社の拝殿で相撲協会年寄、
および幕内力士、幕下十両以上の力士、
ならびに足袋免許以上の行司の総参集をもとめて、
一同列座のところで彼は次のような訓告を発している。
その十三につづく・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
2008年04月13日
【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十一

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その十一
謝 罪 状
弊協会事
去ル明治四十二年以来過テ斯道ノ故実ニ悖リ、司家ニ対シ不敬ノ行為ヲ敢テシ、
恐懼ノ至ニ堪エズ。今ニ於テ誠心誠意曩日ノ非ヲ悔悟仕り、将来ハ天地神明ニ
誓ヒ、角力道ノ故実必ズ遵奉仕ルベク候条、何卒寛大ノ御詮議ニヨリ御誨示奉
仰度、茲ニ謹テ謝罪ノ意ヲ表シ候、頓首九拝
大正元年十一月十三日
大阪方相撲協会代表者 朝日山四郎右衛門
吉 田 善 門 殿
この結果、司家では翌12月、大木戸善右衛門に正式に横綱を授与しました。
その十二につづく・・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
謝 罪 状
弊協会事
去ル明治四十二年以来過テ斯道ノ故実ニ悖リ、司家ニ対シ不敬ノ行為ヲ敢テシ、
恐懼ノ至ニ堪エズ。今ニ於テ誠心誠意曩日ノ非ヲ悔悟仕り、将来ハ天地神明ニ
誓ヒ、角力道ノ故実必ズ遵奉仕ルベク候条、何卒寛大ノ御詮議ニヨリ御誨示奉
仰度、茲ニ謹テ謝罪ノ意ヲ表シ候、頓首九拝
大正元年十一月十三日
大阪方相撲協会代表者 朝日山四郎右衛門
吉 田 善 門 殿
この結果、司家では翌12月、大木戸善右衛門に正式に横綱を授与しました。
その十二につづく・・・・・・
【許可無く記事の転載は、しないでください。NPO行司 塘居 輝也】
【注】
牧野様の御教示により加筆訂正致します。
1 曩日(ドウジツ 以前の)
2 遵奉(ジュンポウ 命令、制度などの決まりに従がってそれを受け継ぐ)
3 御誨示(カイジ 分からない者に、教え示す)
牧野様ありがとうございました。
よろしければ・・・・ご連絡先を頂ければお礼を申し上げたいのですが・・・・・
何分にもまだまだ不勉強ですいません。
本来ならこちらから、お礼文を送りたいのですが・・・・
メールは、ブログのTPOページから送信できますので、
よろしくお願いします。
塘居 輝也








