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熊本と国技相撲の史実の情報発信のブログです。現在の横綱制度って熊本城の本丸御殿の九曜【くよう】の間で生まれました!記録が今でも残ってます。(旧司邸に所蔵分) 私たちNPO行司の日々の活動や熊本の相撲文化(行司)と熊本城の歴史を、史実に基ずき正確にお伝えしていきます。



 



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2008年03月31日

【相撲行司の名称由来】





【行 司の名称由来】



 『 行司 』とは・・・・・・


 相撲道宗家吉田追風を、『本朝相撲の司御行事』 という名称が、

 司御行事とい呼称から転化し、行司(事) としたものである。

 寛政元年の谷風、小野川の免許状を授与した(前期で記されている)通り、
 
 相撲節会時代の審判役は『 立合 』である。

 これをひきいるのが六位の行事と言いました。

 吉田追風は六位の将監で相撲長であり、又行事として立合を率いたのである。


 鎌倉幕府の時、野相撲がよく行われているが立合役を、『 見証 』 

 (けんしょう) といい、行事は、『 相撲奉公 』となった。

 
 
以来『見証』が今の大相撲の行司、

相撲奉公が検査役となった。




相撲節時代   ――――    立合、行事

 武人相撲時代 ――――  見証、相撲奉公

 勧進相撲時代 ――――  行司、検査役


 吉田追風家が故実門弟たる行司の配置網は、 『 吉田家相撲伝秘書 』 に、  
 
 
関八州支配      【式守五太夫】

 関八州支配       【木村庄之助】

 九州九ヶ国支配    【一式左右馬】

 五畿内五ヶ国支配   【岩井左右馬】

 大阪  【尺子   一学】

 肥後  【服部式右衛門】 

 肥後  【服部式兵太夫】
 
 肥後  【服部式源次郎】

 長崎  【注江式  九郎】

 長崎  【綿山   勝治】

と記してあります。




記録は安永年間のもので吉田司家が各地に行司を配置した記録書です。
 
 

 司家所蔵の吉田家相撲伝秘書を、参照して記述しました。
 
 記事の内容の無断転載、及び営利目的での使用を禁止致します。
 
 NPO法人 塘居 輝也
  

2008年03月31日

【司家国宝級の品々】














  
『代々吉田司家に受け継がれてきた至宝の品々です』 
 



後鳥羽天皇より勅賜 『獅子王の団扇』

正親町天皇勅賜 『マカロウの団扇』

関白二条家晴良公下賜 『一味清風』の団扇

豊臣秀吉公下賜 『日月団扇』

徳川家康公下賜 『葡萄団扇』 




仏法即相撲・相撲行司大意之巻・相撲故実書・故実例式之巻・相撲十ヶ條・式字説

秘伝書・四十八手伝立・武家相撲開口・勧進相撲云立・方屋敷云立・そりの云立

四十八手解説・相撲来歴・相撲方諸国・相撲大意之巻・相撲故実三ヶ條

相撲行司大意之巻・相撲秘伝・横綱之故実

力士心得掟書・横綱之図

歴代横綱紀起請文・横綱免許願・その他、相撲関係古文書・資料等




この様な至宝の数々が司家には継承されて来ました。



平成20年2月24日 午後 3時05分






現在写真の団扇や歴史資料は吉田司家によって大切に保管されています。 



平成20年2月24日(日)

本日の活動報告

朝から大津の第十一代横綱不知火光衛門顕彰の会のちゃんこ会に顔を出させて来ました。

明日は大津の教育委員会様の所でつつじ祭りの打ち合わせの会議です。

詳細は、また報告致します。


【このサイトに関する記事・写真の転載の無断使用はしないでください。NPO法人 行司】



  

2008年03月30日

『普天王関のブログの紹介』







靖国神社⇒藤沢⇒横須賀と巡業に行ってきました!

テーマ:巡業 ⇔ http://ameblo.jp/futenou/


普天王@来週で・・・


巡業も終わりです。


金曜日から靖国神社、藤沢、横須賀とまわり


今日両国に一度帰ってきました。


間が空く巡業は少し疲れますね。


が・・・・・

どこの巡業地も沢山の人で賑やかでした。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


忙しい中(巡業の様子を)、ブログで伝えてくれています。

外部ブログですが、ぜひ覗いて見てください。(アメーバブログ)

普天王のどすこい大相撲ブログは、こちら←リンクで飛びます。

ぜひ、直に応援メッセージを!
  

Posted by 行司 at 21:32Comments(0)TrackBack(0)【政治・経済】

2008年03月30日

【熊本・宇土巡業開催】





【熊本・宇土巡業開催決定】

本年、11月場所(十一月場所 福岡国際センター )終了後、11月24日~12月7日のいずれかの日に、

熊本(宇土市のホームページ大相撲巡業が決定したそうです。

この巡業は、宇土市市制50周年記念事業の巡業になるらしく、

宇土市議会承認を経て市の事業として執り行われます。(承認済)




不知火型土俵入りの祖、

第8代横綱不知火諾衛門 ←ブログ内リンクです。

の出生地としての記念巡業になるということです。

もちろん、白鵬・朝青龍という両横綱も来熊予定です。

近県の方も、じかに白鵬の不知火型の土俵入りが観れます。




この巡業を期に、熊本が誇る横綱不知火諾衛門を宣揚していきましょう!

正確な日程は、まだ決定していませんが、

お問い合わせなどは、宇土市教育委員会 スポーツ振興課(宇土市民体育館内)

教育委員会 スポーツ振興課←リンク(注)まだ、早すぎて記事にはなってません。

0964(23)3472

taiiku@city.uto.kumamoto.jp

(返信が必要な場合は,メール本文に、お名前・ご住所をご記入ください。)



今年の年末の話なので、まだ気が早い気がしますが、本格的な熊本都市近県圏での巡業は、

本当に久しぶりになります。

ぜひ、県民上げての応援を、よろしくお願いします!

お問い合わせのさいは、NPO法人 行司の記事を見てと

言って頂かないと、まだ巡業の話が通じないかもしれません。

宇土市の関係者の方が、全員知っている訳ではないので・・・・・

横綱諾衛門の墓所の写真もUPしています。



                                                  以上



  

2008年03月30日

【相撲行司之掲示版】






ご意見・ご要望や吉田司家に関するお問い合わせなど・・・・・

気軽に書き込んでくださいね。span>

ご訪問の方は足跡を残してください!スルー厳禁です。(笑)

私も、必ず伺います!『なるべく毎日伺います』

ブログのPRでも構いません。



『不適切な内容の書き込みは、コメントを削除する場合があります。』


NPO法人 行司  塘居 輝也

相撲史実に関しての回答にしばらく時間を頂く場合がございます
  

2008年03月29日

【熊本県近代文化功労者】23世 追風氏 その壱



※写真は、代々の吉田司家の祖先が眠る(熊本市坪井の真浄寺)墓所です。


熊本県近代文化功労者




    第十二回(昭和三十四年度顕彰)

 吉 田 善 門 翁

  家  系


 吉田善門の家系は遠く後鳥羽天皇の時代にさかのぼる一名門ということが出来る。源平の兵乱にわずらわされて朝廷の儀式などもすたれたことがあったが、そのうち兵乱もおさまったので、これらのすたれた儀典を復興しようと志されたのが後鳥羽天皇であった。

相撲節会の復興もまたその一つであった。そこで天皇はこれまで相撲行事官として長く仕えた志賀家の子孫を四方にさがされたが、その家は安徳天皇にしたがって壇ノ浦に消えて、断絶してしまったらしく見出すことが出来なかった。それではと、これに代る人を天下にさがされた結果、志賀氏の伝をうけてこの道の故実旧例に精通している吉田家次という者が越前国にいることがわかった。もと木曾義仲の家臣であったが、義仲の行動にあきたらず、退いて生地に螢居していたのである。


 そこで後鳥羽天皇はたゞちに越前国から家次を召され、相撲司を命じ、従五位上に叙し、名を追風と賜った。時に文治二年(一一八六)六月である。こうして吉田司家は生れた。吉田善門はこの家次から数えて二十三世にあたっているので二十三世追風といった。


 初代追風家次は後鳥羽天皇から獅子王の団扇と木剣を拝領している。むろん相撲節会に行事官として大いにつとめた功によるものである。第二世は豊後守追風といった。その頃承久の乱がおこって都はまた騒がしくなったので、追風は万一をおもんばかって勅賜の品々や家伝の書類を持って遁れ、河内国の一族のもとに非難した。それから代々大和摂津の間に流寓することになる。


 第三世から第十二世追風まで、この間、北条、足利、戦国時代とつゞくため、都に出ることも少なく、したがってさしたることもなかったようである。


 十三世追風にいたって特記すべきことがおこった。十三世は名を長助といった。時の帝は正親町天皇である。天皇はふたたび相撲節会の復興を念じられ、長助を召して行事官とし、豊後守と称させた。その時の相撲節会の奉仕の功を賞して「マカロオ」の団扇を勅賜された。関白二条晴良は長助を呼んで相撲の故実について種々下問したが、その答えが実に立派であったので、「一味清風」の四文字を記して長助に与えた。


この一味清風というは日本相撲の法二派に分るゝ時は必ず道が乱るゝから作法を一味にして相撲道を守る、これ清風なり、という意であるとつたえられ、また一説には相撲の初祖志賀清林の清と追風の風をとって一味清風と書かれたものともいう。とにかく吉田家と相撲と離すべからざることをいったものであろう


関白近衛晴嗣もまた式につかう烏帽子、狩衣、四幅袴を投与している。織田信長豊臣秀吉も、また徳川家康も、ともに団扇を授け、信長は長助の力をかりて武家相撲の例式を定め、家康は将軍上覧相撲の規程を定めた吉田家ではこの十三世追風中興の祖とよんでいる。
  

2008年03月28日

【福の花孝一】





福の花孝一



土 俵 歴


 昭和15年7月1日、菊池郡合志村(現菊池郡合志町)に生れました。

本名は福島孝一。
 

合志中学校を卒業したあと2年間家で農業をやっていたが、
姉の嫁ぎ先である菊池郡泗水町田島に農作業の手伝いにいっていたとき、
年寄不知火(元八方山)の親父さんが「わあー孝ちゃんの足のふとかー(大きい)、
こっだけ足んふとかならあんならよか体になっばい、相撲とりにはもってこいばい」

ということで、それからは『相撲とりに行かんかー』と大変ないわれようだったそうです。

なかなか本人がその気にならないので、今度は義理の兄から「はよいかんか、大阪に行け」といわれ、

 今度ようやく本人が決心して行くといい出したら、母親や御近所が、みな反対しかし義兄一人に、みんな寄り切られてしまいました。かくして、昭和32年11月、九州場所が終わって熊本巡業があったとき、急遽出羽海部屋に入門。

 昭和33年1月、本名の福島をそのままの四股名として初土俵を踏みました。御本人は、足が大きかったばかりに相撲とりになったみたいと述懐していたそうです。

 昭和34年5月、東序2段27枚目のとき福の花と改めました。下積み生活が長かったがよく辛抱して、昭和39年5月場所は西幕下14枚目で7戦全勝、同部屋の福田山、津軽国と三つ巴の優勝決定戦を展開、両者に勝って幕下優勝をなしとげ、翌7月場所西十両18枚目に進みました。
 
 新十両の場所は10勝5敗の好成績をあげ、以後十両では1場所全休したほかは全部勝ち越しました。部屋頭の佐田の山(のち50人目の横綱)から「孝一、孝一」と毎日のように本名を呼ばれてかわいがられました。

 昭和40年9月東前頭14枚目に入幕しました。41年3月場所は東前頭5枚目に躍進しながら、2月のマカオ巡業で痛めた左膝の故障のためやむなく全休、東京渋谷の広尾病院のベッド生活を余儀なくされました。

 昭和41年12月2日、菊池市の菊池神社において、菊池郡市福の花後援会長の有田義行菊池市長から、樫山南風画伯の作品「水前寺の鯉」を刺繍(ししゅう)した化粧まわしが贈られました。
 
 その後ほぼ順調に進み、昭和42年3月場所は入幕10場所目で西小結に昇進し、初の三役入りを果しました。7月場所は2度目の西小結となり、11月場所は西5枚目で優勝争いに加わりました。

 14日目を終わって11勝3敗の星は西横綱佐田の山と相星、東横綱大鵬は11勝ながら休場に入っており、東張出横綱柏戸は10勝4敗でありました。千秋楽に福の花は平幕でありながら三役揃い踏みに出場し、結び前の一番で柏戸に敗れて11勝4敗となったが、初の敢闘賞を受賞しました。なお優勝は北の富士を破った佐田の山でした。

 昭和43年1月場所は3度目の西小結となり、3日目に横綱柏戸と猛烈に張って、柏戸が左前褌を取りにくるのを左にかわって更に突張り、柏戸がもろに叩くのにつけいって見事に突き出し、7回目の対戦で初めて柏戸を破りました。
 
 ジリジリと力をつけていたが、昭和43年5月場所は東7枚目で4勝11敗と大きく負け越したため翌7月場所は7枚下げられて東十両2枚目まで落ちました。しかし捲土重来、10勝5敗の星をあげて1場所で幕内に返り咲き、以後引退するまで7年余、44場所にわたって幕内に在位して花々しく活躍しました。

 その中心となったのは、昭和45年1月から49年11月までの5年、30場所で、この間に敢闘賞6回、金星獲得5個、番付の最高位東関脇1場所など輝かしい実績をあぜました。活躍の概要は次のとおりです。
 
 昭和45年1月場所。東3枚目で6日目大関北の富士と対戦、福の花の右の張手一発が北の富士の左顔面に決まり、一発で北の富士を倒しました。まるでボクシングのKOシーンを見るかのように北の富士は膝から崩れていきました。

 そんな福の花につけられたニックネームが“フックの花”で、本人もうまいことつけたもんだといっていましたが、四股名をもじった最高級のニックネームで、名付け親は内外タイムス新聞社の吉川亨氏でありました。

 福の花は3段目時代、ボクシング不二拳ジムの会長岡本不二氏に「君、ボクサーになったら東洋チャンピオンを保証する」といわれたそうだが、土俵でそれを立証したのがこの一番でありました。
 
 昭和45年5月場所。西4枚目で4日目東張出横綱玉の海と対戦、玉の海が右を差すと、福の花これをきらって激しく突っ張り双差しで出ました。玉の海は右を巻き替え土俵際で十分になったが、右から突き落としにいったのが悪く、腰がのび福の花の速攻の寄りに倒されました。福の花は初の金星。この日まで福の花は3戦3敗であったがこの1勝の初白星が初金星、反対に玉の海は3戦3勝であったのが初黒星となりました。8勝7敗で2回目の敢闘賞を受賞しました。
 
 昭和45年7月場所。東1枚目(筆頭)で初日横綱玉の海と対戦、福の花は得意の右4つから左上手を浅く引きつけ、玉の海の堅腰を浮かして一気に寄り切り、横綱玉の海を2場所続けて破り、連続金星を獲得しました。

 福の花にまたしても敗れた玉の海は「右4つ、上手を取ると強いよ、この頃すごく相撲が早くなった」といって福の花の地力を認めていました。

 昭和45年9月場所。東2枚目で9日目横綱北の富士と対戦、福の花は北の富士が踏み込まないのにつけいり、あたって双差しを狙う北の富士の右を左からおっつけ、北の富士が引きをみせると、左差し右からおっつけて出足ばや一気に寄り倒しまた。

横綱に3場所タテつづけに土をつけ、3場所連続金星を獲得しました。

 昭和45年11月場所。西4枚目で、関脇貴ノ花、小結黒姫山らを倒し11勝4敗で3回目の敢闘賞を受賞しました。この場所、出羽海部屋のホープ三重ノ海が関脇から落ちて、部屋には3役がいなくなりました。福の花はそれが悔しくてたまらず、名門の出羽海部屋をなんとしてでも昔のように隆盛にしたいと念願しており、そのために30歳という土俵年齢を超越して戦っていました。
 
 昭和46年3月場所。西6枚目で10日目に勝ち越して、横綱玉ノ海、大鵬、大関琴桜についで幕内で4番目に給金をなおし、10勝5敗で4回目の敢闘賞を受賞しました。

 昭和47年1月場所。西3枚目で、6日目に小結黒姫山、11日目に大関琴桜、12日目に横綱北の富士を倒すなどして、14日目まで10勝をあげ、琴桜、栃東と並んでトップに立ちました。千秋楽に輪島に敗れ10勝5敗となったが、5回目の敢闘賞を受賞し、4個目の金星を獲得しました。なお、千秋楽に琴桜は三重ノ海に敗れ、栃東は清国を破って11勝4敗で平幕優勝を飾りました。

 昭和47年11月場所。東14枚目(幕尻)で8日目に二子岳を送り出して初日から土つかずで勝ち越し第一号となり、9日目には3役と当てられ、小結魁傑と対戦、破竹の勢いで強烈な左喉輪から右おっつけで魁傑を圧倒、9連勝して幕内単独トップに立ちました。13日目には3敗同士で新大関輪島と対戦、最後まで攻撃の手をゆるめず、寄り倒して完勝し、ベテランぶりを発揮、千秋楽には初の技能賞受賞が決定していた増位山と対戦、喉輪気味に激しく突っ張り、右の張り手で突き倒しました。かくて11勝4敗、幕内最年長でありながらよく頑張って6回目の敢闘賞を受賞しました。

 昭和49年7月場所。東3枚目で7日目関脇魁傑と対戦、“3番相撲”をとり、場内を大いに沸かせました。2度とも右4つから福の花が寄って土俵際で福の花の左上手、魁傑の右下手の投げの打ち合い、行司木村正直の軍配は最初は福の花に、2度目には魁傑に上がったが、いずれも物言いがついて、同体と判定されました。3度目は力尽きた福の花が突き出されたが、34歳の老雄の健闘に惜しみない拍手が送られました。3度取り組むという珍しい勝負でありました。

昭和49年11月場所。西10枚目で10日目、麒麟児に対し、張り手を交えて突っ張り、一直線に押し出して給金直し第一号になりました。12日目は横綱輪島と対戦、突っ張って右4つ十分になって寄り立て、輪島が土俵際で左上手をとってこらえると福の花腰をぶっつけて寄り切り、5個目の金星を獲得しました。14日目には、11勝2敗で、横綱北の湖、小結魁傑と優勝を争っている小結若三杉(のち若の花)をどっと押し出しに破り、10勝をあげて7回目の敢闘賞を受賞しました。

 11月の九州場所はご当所ということになります。そのためか九州場所では成績が良かったです。入幕以来、11回の九州場所を負け越したのは40年、46年と最後の場所となった50年の3場所だけであり、一方7回目の敢闘賞受賞のうち4回は、九州場所でありました。

「九州がいいのは、ご当所だからというわけじゃない、1年の最後の場所だということで気持ちが引締まるから」と好調の原因を語っていました。
 
 昭和50年に入ると、勝ち越しの場所がなく不振が続きました。11月場所の千秋楽の一番がすむと、引き揚げる花道でサガリを高々とほうり投げ、両手を上げてバンザイ、観客の拍手にこたえました。そして弟弟子三重ノ海の初優勝と大関昇進確実を見とどけて引退を声明しました。ときに35歳でありました。
 
 幕内の在位は10年余、61場所の長期にわたり、最高位は関脇。栃光の引退後の本県出身の力士の代表として活躍し、敢闘賞7回、金星5個、通算出場1257回などすばらしい記録を樹立しました。

 全盛時代、身長1㍍83、体重135㌔。

 竹を割ったような気性通り闘志満々、張り手を交えて激しい相撲をとりました。見ていてスカーッと気持ちのよい相撲でした。下積み生活が長かったが、いつまでも若々しく、豪快で気っぷのよい取り口は真面目な生活態度と並んで多くのファンを魅了しました。立派の一語につきる骨の髄からのお相撲さんで、出羽海部屋で先頭に立って若手をグングン伸ばしていきました。

 昭和50年12月24日、日本相撲協会50周年記念に、初土俵以来の出場回数1257、終始敢闘、真面目な土俵態度に対して協会から表彰状が授与されました。

 昭和44年1月場所後に智子夫人と結婚しました。夫人は相撲茶屋“和歌島”の娘さんで、昭和初期に活躍した、和歌山県出身、出羽海部屋の元小結和歌島の娘であります。和歌島は引退して年寄関ノ戸を襲名していました。福の花は先代関ノ戸の養子になって、引退して年寄関ノ戸を襲名しました。

 関ノ戸襲名披露大相撲並びに断髪式は、昭和51年5月29日午前11時30分から蔵前国技館で行われました。現役時代の人気を表すかのように詰めかけたファンは何と7千人程でありました。披露大相撲では主催者を代表して、福の花後援会長の大久保武雄衆議院議員が「福の花関の根性は郷土の誇りである。

 後に、関ノ戸を襲名するが、「いつまでも皆さんのご支援をお願いしたい」と挨拶しました。続いて、断髪式に入り、大久保衆議院、春日野理事長、横綱北の湖ら120人が次々と鋏を入れ、最後に師匠の出羽海親方が髷を落しました。

 年寄関ノ戸は、やがて相撲協会の審判委員となってます。


  

2008年03月25日

【肥後相撲国技館】






肥後相撲館建設について



1. 肥後相撲館の開館
 
大正二年十月十一日は十三代 追風が没してから三百年の忌辰にあたった。
これより先き善門は、郷土の斯道(しどう)奨励のため相撲常設館の建設のもくろみをもって、
相撲役員等と熟議の上、十三代追風の三百年忌辰の記念事業として常設館の新築を決定した。

熊本市辛島町六番地に熊本相撲の殿堂としての常設館は見事にその偉容をあらわした。
開館式は十月二日行われた。 善門の嫡子長助が、方屋祭、開口、方屋開きを執行した。

善門自らは横綱大刀山と大錦の故実三段構を合わせた。
第六師団長、熊本県知事の赤星典太熊本市の長山田珠一、その他の人々が祝辞をのべた。

それから東西幕内力士の揃踏、横綱太刀山の独手数入りがあり、それから取組が数十番行われた。
つづいて同年同月十一日、木の香も新しい肥後相撲館で、十三代追風の三百年祭が厳かにおこなわれた。
当日祭式の中に式相撲が執行され、善門は一切の故実相撲を司式した。
この日も横綱太刀山の独手数入り、そして古式相撲の取組が十数番あった。




2.太刀山の十人掛懸賞相撲

有名な太刀山の十人掛の懸賞相撲があったのもこの肥後相撲館の大相撲興行中であった。
開館式のその日から興行は始まったが、十日間ぶっ通して取組みが行われたあと、太刀山の十人懸りがあった。
しかし太刀山の強豪は無敵といってよかった。

一体どの位強いか、というところから十人掛の懸賞相撲になった。
太刀山は横綱でも大関でもかまわぬというのを善門の声がかりで関脇以下東西きっての
精鋭十人(東京方、大蛇潟、金の花、小野ヶ崎、御舟潟、大阪方、放駒、千舟川、秀の海、加古川、小染川、男山)
ときまり、太刀山は、余裕しゃくしゃくとして、ただ一度叩きこみしただけで、
あとは片はしからつかんで放り出すといった有様で、強敵十人を総なめにし懸賞金五百円をもらったのであった。
いかにも天下無敵日下開山らしい強豪ぶりであった。




3. 肥後相撲館の解体
 
大正六年五月には十九代 吉田追風の百年祭をいとなんだ他、大相撲の巡業はいつもここで行われ、太刀山、大木戸、鳳、西の海、大錦、栃木山、二代目大錦、宮城山、源氏山、常の花などがこの相撲館で新横綱を張ったのものだ。

それはどれだけ相撲愛好者を熱狂させたかはかりしれなかった。
かねては映画館として熊本市民に親しまれた。
 
当時映画常設館としては電気館、世界館などがあったが相撲館は西洋物の映画を上映するところとして知られていた。
あとでは松竹系統となって松竹の映画監督をしていた熊本出身の牛原虚彦が手がけた映画がよく上映され
熊本市民をよろこばせた。

こうして大相撲と映画館として長く郷土の県市民に親しまれてきた相撲館が、熊本市発展の動力をなす
市電の敷地となるため、解体しなければならなくなったのは惜しいことであった。

昭和三年十一月二十二日から四日間最後の相撲巡業として横綱常ノ花一行がやってきて、
連日熱狂につつまれついにはNHK松内則三が相撲の中継まで行った。
 
この盛況ぶりは当時の九州新聞で報じられた。
そして昭和三年十二月九日解体式があげられた。
相撲館が建設された大正二年から数えて十五年の間の歴史であった。
相撲館の市電敷地となった残り全部は現在辛島公園となって市民の憩いの場所である。







                写真は、初公開の肥後相撲館内部です。









【当サイトに関する記事の転載及写真の無断使用はしないでください】



  

2008年03月25日

【スタッフ紹介】





※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

【スタッフ紹介】


塘居【相撲史を毎日かなり読みあさって編集しています。ピンクのシャツがトモイです】

岩佐【資料のデータ起しから、電話担当からすべてこなしてます!】

ボランティアスタッフH (かなりの写真マニア写真は次回こうご期待!)

ボランティアスタッフⅠ(かなりのイケ面、本人が恥ずかしがって・・・・)

行司の事務局はすべて市民ボランティアで運営しています。

いつでん、遊びにきてはいよ!(どうぞいつでもあそびにきてください。)【スタッフ一同】

ボランティア募集

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イベント時のサポーターや、記事の編集などなど・・・・・

お気軽に御問い合わせください。

行司 事務局  電話:096-213-1070




平成20年2月24日【日】

本日の活動報告

朝から大津の不知火光衛門のちゃんこ会に顔をお出しして来ました。

明日は大津の教育委員会様の所でつつじ祭りの打ち合わせの会議です。

詳細は、また報告致します。

  

2008年03月25日

【天水山正則】





天水山正則




土 俵 歴


昭和15年12月8日、玉名郡小天村(現玉名郡天水町)に生れる。

本名は池田正則

 昭和31年、芦北郡湯浦町出身で、当時荒磯部屋にいた十両の鎌錦為之助にくどかれて、38人目の横綱だった照国の荒磯が経営する荒磯部屋(のち伊勢ヶ浜部屋)に入門、同年5月郷里の天水村に因んで天水山と名乗り、初土俵を踏みました。


 伊勢ヶ浜部屋は「秋田にあらずば伊勢ヶ浜に非ず」とでもいえそうな秋田県出身者の多い部屋で、熊本県出身者は異色の存在であり、新弟子の頃言葉が通じなくて困ったそうです。

入門当時は体重が63㌔しかなく、とても新弟子検査の合格は無理と思われたが、約20日間の巡業中に何と12㌔も太り、検査合格にたっしたといいます

 入門当初の成績はなかなか優秀で、序ノ口で1場所負け越したほかは20場所の間負け越し知らずで、昭和35年7月には幕下に進みました。この間、昭和32年3月場所は序ノ口8戦全勝、優勝決定戦でプロレス出身の甲潟(のち天山)に敗れたが、優勝同点の好成績でありました。しかし幕下の上位ではなかなか勝てず足踏の状態でありました。

 昭和37年に入って勝ち越しが続き、昭和38年3月には四股名を本名の池田に改め、翌5月場所は東幕下6枚目で7戦全勝優勝をなしとげました。

今度の優勝を一番喜んでくれるのは鎌錦さんでしょう」と鎌錦によくけいこをつけてもらった当時をなつかしがっていました。当時の相撲解説者天竜三郎氏は、幕下以下で5月場所一番進歩したのは池田だと褒めていました。

翌7月に西十両15枚目に進み、ようやく十両入りを果したが、入門以来41場所目、実に幕下に29場所もいたのでした。同場所から四股名を再び天水山と改めました。


 十両に入っても叩くくせが抜け切れず、暫くは停滞したが、昭和40年の1月場所は11勝4敗、3月場所は西4枚目で大健闘、12勝3敗の好成績で十両優勝をなしとげました。同場所の千秋楽、12勝3敗の星で相星の高鉄山と優勝決定戦を行いました。相撲ファンで埋まった大阪府立体育館内で、郷土の声援を担った天水山は出足鋭く高鉄山を寄り倒して十両優勝、5月の新入幕を確定的にしました。

 5月に東前頭14枚めに入幕、初土俵以来9年、52場所目の入幕で、長い道程(のり)をよくも辛抱したものでした。
 新入幕の5月場所は、初日の前日に盲腸炎をおこし、散らしながら連日出場しました。6日目には幕内でただ1人5戦5勝で勝ち放しの、立浪部屋の新鋭176㌔の巨漢若見山と対戦、天水山は「褐色の重戦車」の異名そのままに若見山を押し出しに破りました。千秋楽には房錦を突き落としに破り、よく健闘して8勝7敗と勝ち越しました。-

 翌7月場所は西10枚目に進みました。しかし大きく負けがこんで9月には十両に落ちました。十両に11場所いて、昭和42年5月場所は東7枚目で13日目に優勝を決め、12勝3敗の好成績をあげて2回目の十両優勝をとげ、翌7月に西前頭十枚目に再入幕しました。

 ところが同場所は7勝8敗と1点の負け越しだったが不運にも翌9月には東十両1枚目に落ちました。ここで8勝7敗の星をあげ翌11月に東前頭11枚目に再々入幕しました。この場所は6勝9敗し、翌1月には十両に落ち、幕内と十両の往復が3度も続きました。

昭和43年9月には幕下に落ちて場所後に廃業しました。

 幕内の在位は4場所で、最高位は前頭十枚目。

全盛時代身長1㍍76、体重128㌔。丸っこい体でした。

押しはあまりなく、左4つで寄るという地味な取口でありました