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2008年03月11日

【鞍ヶ嶽 楯右衛門】





鞍ヶ嶽楯右衛門



土 俵 歴

明治31年11月6日、熊本市新町に生れる。本名は上田善三郎氏
大正2年16歳のとき横綱太刀山の門に入り、花岡山と名乗り、友綱部屋でけいこを積んで鞍ヶ嶽と改め、3年1月初土俵を踏んだ。6年5月場所は3段目で5戦全勝で優勝し、7年1月には東幕下46枚目に上がり、幕下に3場所いて大正8年5月には東十両13枚目に進んだ。


大正9年1月場所は11枚目で5勝5休、5月場所には西3枚目に進み、5勝2敗3休と好成績が続き、大正10年1月東前頭14枚目に入幕した。ときに24歳でした。

この間、大正8年5月場所に師匠の太刀山(年寄東関)は、検査役の選挙に落ちたのを遺憾に思ってあっさり相撲界から引退した。そのとき太刀山は一門の弟子を部屋ぐるみ3代高砂(大関朝潮)に譲ったが、鞍ヶ嶽が大器であることを強調して特別の指導を頼んだ程で、太刀山が最も嘱望していた秘蔵弟子であった。所属部屋は東関部屋から高砂部屋となった。

入幕直前の人気は大変なもので、常陸山(19人目の横綱)の再現を思わせるようで、ことに熊本興行の際は、関取の前途を祝するひいき筋の幟が熊本駅から新市街まで、ずらり立ち並んだくらいで行列ができ、そのすばらしい人気の程を物語っていました。

あとでこの幟を長持に詰めたところ、3ばいもあったというから相撲そのものに対する人気もさることながら出花の彼に対する郷土の声援の凄さをものがたっています。

入幕して2場所目の10年5月場所の5日目に、西5枚目で東横綱大錦と対戦したが、この取組は大物言いとなった。右4つから大錦が寄ると鞍ヶ嶽は土俵際で必死にこらえて左に打棄り同体に落ちた。行司17代木村庄之助は軍配を鞍ヶ嶽に上げた。すると検査役の入間川(小結両国梶ノ助)から打棄る前に鞍ヶ嶽に踏み切りがあったと物言いがつき、もめにもめた末、逆に大錦の勝となり、庄之助は軍配を上げ直した。

庄之助は、差し違いという立行司として、この上ない不名誉な失態をしたことで、責任をとり、辞表の提出を協会に申し出た

協会役員や大錦、鞍ヶ嶽らは懸命に引き止めたが庄之助の決意は堅く、協会は庄之助の高潔な精神を尊重し辞表を受理しました。 この勝負で名をあげたのは庄之助と鞍ヶ嶽であった。

大正11年5月場所は3勝6敗1引き分けに終わったが、7日目には西大関(のち31人目の横綱常ノ花を叩き込みで破り、また大正14年11月の明治神宮の第1回力士選士権では、既に引退はしていたが、まだまだ実力のあった元横綱栃木山を寄り切りで破ったこともあった。(栃木山は敗者復活戦で立ち直り優勝を遂げた。)

大正13年5月には、四股名を東関と改めた。年寄名を四股名として土俵に上がった最後の力士でした。

その後、昭和5年10月場所後に引退するまで13場所をつとめ、大正15年1月場所は7勝4敗、同年5月場所と昭和2年10月場所は8勝3敗と好成績をあげましたが、十両に7場所もいて、1進1退であった。

幕内の在位は21場所で、最高位は前頭1枚目(筆頭)。

全盛時代、身長1㍍73、体重120㌔で、左を差しての相撲が得意で、なかなかの相撲巧者であり、機をみて咄嗟に吊り上げたり、櫓投げで振り回したりなど取り口は実に堂々としていた。

そして引退後は、年寄東関を襲名して相撲の興隆に尽くし、昭和9年5月限り廃業した。

山田珠一熊本市長が学童の相撲奨励のため、熊本市手取本町に設けた修練道場「四柱会」の師範に迎えられて相撲の指導につとめていた

昭和14年10月21日没、42歳。


史     跡

 墓は熊本市横手1009安国禅寺にあり、碑面には次のとおり刻されている。
 (正) 上田家累世之墓
 (左) 昭和十四年十月二十一日歿萬太朗長男善三郎享年四十二歳







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この記事へのコメント
昔の行司は、勝負采配に真剣だったことが伺えますね。

古来、行司差し違えは、切腹だったとか・・・・・・

命がけの審判だったのですね。
Posted by 行司行司 at 2008年03月11日 17:12
この写真を拝見すると・・・

ご家族の誇らしい・・・期待と出世に・・・

ご本人の気迫が感じられます。

傑作・ポチ!
Posted by rakuten23 at 2008年03月18日 10:50