【吉田司家 横綱免許状】

セレスピード熊本

2008年04月08日 00:29




寛政三年家斎上覧相撲之図  (江戸城吹上御殿)


【横綱が初めて誕生した江戸城での上覧相撲を描いたもので、東方大関小野川喜三郎、関脇陣幕、小結九紋龍、西方大関谷風梶之助、関脇雷電、小結柏戸以下相撲者総数百六名、「待ッタ」なしの一番勝負で、結び三役弓取りまで。 行司は十九代吉田追風、脇行司木村庄之助と 「公家相撲上覧之式」 に記されている。】


横綱免許状  【吉田司家の故実門人に差し加えられた者を指す】


吉田司家(よしだつかさけ)は、大相撲の宗家である。志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田豊後守家次(ぶんごのかみいえつぐ)から始まり、代々相撲の宗家として代々「追風」の号を名乗る。元来、京都二条家に、奉公し節会相撲の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利公に招聘され肥後細川藩に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県熊本市に住む。

江戸時代に勧進相撲が、取り行われるようになり、寛政元年十一月谷風・小野川に横綱を免許(故実書を授与)した。

寛政3年及び寛政6年に、征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲を奉仕し武家相撲の作法及び土俵の登場・礼式など、すべての相撲の様式を定めた。

以来横綱免許は、すべて司家によって授与されてきたのである。 

西南戦争で吉田司家が西郷隆盛率いる反乱軍に従軍してからは一時的に権威が弱体化し京都の五条家があちこちで横綱免許を出したが、梅ヶ谷藤太郎が吉田司家による免許を望んでからは権威も回復した。そして明治維新の、あの旧物破壊の大怒涛の中で、裸で取る相撲は、未開野蛮人な行為であって国辱だと、相撲廃止論が起こった時、23世 吉田善門は、身を挺して相撲廃止の無謀さから、国技相撲を救ったのであった。相撲界の一代恩人である。後に大坂相撲にも吉田司家の免許を持つ公認横綱が4人登場した。

第40代横綱東富士欽壹までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった、細川家の東京小石川の別邸で取り行われた)が続いたが、第41代横綱千代の山雅信以降は日本相撲協会が横綱推挙を行なうことになり免許権を、相撲協会に移譲した。なお第59代横綱隆の里俊英までは司家も推擧式に参加し、司家の15尺土俵における奉納の土俵入りも行なわれたが、第60代横綱双羽黒光司以降は司家は推挙式には参加せず、15尺土俵での新横綱による奉納土俵入りも行なわれていない。

【司家内部の不詳事により、25世 吉田追風と、春日野理事長との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を、春日野理事長に委ね当面、協会との関係を中断する旨、双方了解した】

現在、諸問題を解決し、1日も早い復興を栄位努力中です。







                                                  



写真は吉田司家が、歴代の横綱に授与していた、横綱免許の実物の写真です。

みなさん意外と見たこと無ですよね・・・・

この免許状・故実書を頂いた関取だけが正式な歴代横綱として歴史に記されています。

つい最近まで、この横綱免許状が、熊本の旧吉田司邸で伝統的に代々の横綱に授与されていました。



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