【昭 和 へ・・・・】

セレスピード熊本

2008年03月14日 16:11




  昭  和  時  代 へ 


    


  八方山主計(かずえ)



土 俵 歴

大正6年5月5日、菊池郡田島村(現菊池郡泗水町)に生れました。

本名は安武計といいます。

同郡西合志村(現西合志町)の剣道家緒方武氏の道場「護国殿」に通って剣道を学び、将来は剣術道に進むつもりだったが、師匠の緒方氏は彼の堂々たる体軀から将来力士として有望だと感じ、在京の徳永為次氏(吉田司家の故実門人)に紹介、さらに藤島親方(元横綱常ノ花)に話が持ち込まれます。

昭和8年10月熊本市へ武蔵山(のち33人目の横綱)一行が巡業にきたときそれに加わり、17歳で出羽海部屋に入門し、昭和9年1月初土俵を踏みました。
 
昭和10年1月、安武の本名で序ノ口、ここで2番勝ち越し、次の場所は序2段の中位に立って、羽黒山(のち36人目の横綱)に1敗しただけで4番勝ち越しました。このとき彼の躍進を誰もが期待していました。

ついで3段目と順調に出世しましたが、昭和12年1月幕下で左膝を痛め思わぬ大怪我に見舞われます。

とても相撲はとれないと医師に診断されたが、出羽ノ花、大邱山といった部屋の関取衆に励まされて再起を誓い、昭和12年5月3段目へ落ちはしたものの4場所目の昭和14年1月幕下へ復帰しました。

昭和14年5月東幕下4枚目のとき四股名を本名の安武から八方山に改めました。昭和15年5月場所は十両に昇進、同場所は10勝5敗の好成績をおさめました。十両昇進にあたり細川侯爵家から幸先よかれと二つ引の化粧まわしが贈られました。

昭和15年の第10回大日本相撲選士権大会では2部で優勝しました。
 
昭和16年1月場所は東十両3枚目で9勝6敗の好成績をあげ、10両2場所目の同年5月には、晴れて東前頭21枚目に入幕しました。ときに24歳でした。初土俵から7年目の苦労を積んでいました。

徳永為次郎氏は入幕を祝して次の詩を詠じました。
  
寄八方山入幕
  東肥力士出家郷
    修錬功成獲瑞章
  
 偏喜八方山嶽譽
   柢應奮勵纒巨網
 
入幕した昭和16年5月場所は7勝7敗1預かりの成績でありましたが、この預かりは4日目美男力士といわれた鯱ノ里との1戦でありました。

左四つに組んだあと、八方山が吊ると、鯱ノ里は右外掛けで防ぎ、土俵中央でもみあいました。そして鯱ノ里が再度右外掛けで攻めて寄ると、八方山は左に打棄り、軍配は八方山に上がったが物言いがつき、協議の末取り直しとなりました。再戦は、鯱ノ里が付いて出ると八方山は双差しとなりました。しかし鯱ノ里は左を巻き替え、左四つとなって寄り合いました。このあと鯱ノ里が外掛けに出ると、八方山は左へ打棄りました。軍配は鯱ノ里に上がりましたが、物言いがついて協議の末勝負は預かりとなりました。

入幕3場所目の昭和17年5月場所は5日目に初日以来4連勝と破竹の勢いの強豪大関前田山(のち39人目の横綱)と対戦しました。前田山が右を差し、左で抱えこんで一気に寄りたてました。八方山は棒立ちのまま土俵いっぱいにつまって必死に左に回りながら突き落とすと、前田山は左手をつき、八方山も土俵を割りました。

軍配は八方山に上がり、物言いがつき検査役が協議した結果、物言いは成立せず八方山の殊勲の白星となりました。
昭和17年5月場所に同部屋の安藝ノ海が横綱(37人目)になり、八方山はその土俵入りの露払いをつとめました。

昭和22年11月場所は好調のすべり出しで、新鋭・古豪を向こうにまわして星争いの総当り戦でよく健闘、9日目の終了時で、東横綱の羽黒山と西11枚目の出羽錦が8勝1敗でトップ、西8枚目の八方山、16枚目の栃錦、18枚目の相模川が7勝2敗でこれを追っていました。八方山は、鏡里、不動岩を寄り切り、10日目力道三と物凄い突っ張り合いから力道三が双差しになって寄ってくるのを剣ヶ峰で弓なりになって打棄り8勝2敗にこぎつけたが惜しくも千秋楽に清水川に寄り切られて8勝3敗ととなりました。

優勝は10勝1敗の羽黒山、亦この場所からスタートした3賞は、殊勲賞が9勝2敗の出羽錦、敢闘賞が7勝4敗の輝昇、技能賞が8勝3敗の増位山であったが、八方山の8勝3敗もこれら3賞に比し勝るとも劣らない立派な内容の星でありました。

昭和25年1月場所は9勝6敗の星を残し、続く3場所はいづれも8勝7敗と勝ち越して26年5月には西前頭1枚目(筆頭)に進みました。

昭和26年6月30日、元横綱前田山の高砂親方、幕内大ノ海(のちの花籠)、十両の藤田山の4人で横浜港を出帆、約半年にわたってハワイ、アメリカ本土の主要都市を巡業各地でパンツの上からまわしを締めて土俵入りや取組などを実演して国技大相撲を紹介し、海外普及につとめました。ワシントンではバークレイ副大統領と会見するなど成功裡に帰国しました。

しかし九州場所には帰国できず全休しました。昭和27年9月、十両に落ち、昭和28年1月限りで引退、年寄不知火を襲名しました。

幕内の在位は12年、26場所で、最高位は前頭1枚目(筆頭)。

全盛時代、身長1㍍80、体重131㌔

幕下時代に痛めた膝が十分に曲がらず、下半身の脆さから堂々たる体力を十分に生かしきれませんでした。それでも左四つに相手を引っ張り込むと、大きな腹を使っての寄りにものをいわせました。茫洋として大まかな人柄で親しまれました。

年寄不知火披露相撲並びに断髪式は昭和28年6月2日、正午から蔵前国技館で行われました。伝統の行事のあと断髪式に移り、八方山が土俵に上がると観衆は拍手をもって迎えました。後援会長黒川武雄氏、顧問の大麻唯男氏、幹事大久保武雄氏ら同郷の名士や、力士代表横綱東富士、出羽一門代表大関栃錦らが次々に鋏を入れ、最後に出羽海親方が髷を落としました。

そのとき館内に万雷の拍手が起こったことは、いうまでもありません。

年寄になってから木戸主任、監事、検査役(今の審判委員)などをつとめ、昭和45年3月から参与であったが、昭和52年3月4日没、59歳。


史     跡
 
墓は千葉県市川市大野町4-2481の市川霊園にあり、碑面には次のとおり刻されています。

 (正)、<紋>安武家  (紋は“違い鷹の羽”)
    右側に墓誌がある。
      昭和五十二年三月四日歿
         八方院釈浄量居士  俗名不知火事安武計行年五十九才

 また、生地菊池郡泗水町南田島字佐野にもあり、碑面には次のとおり刻されています。
 (正)八方院釋浄量居士
 (裏)昭和五十二年三月四日往生
         俗名安武 計五十九才

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