【天水山正則】

セレスピード熊本

2008年03月25日 16:46





天水山正則




土 俵 歴


昭和15年12月8日、玉名郡小天村(現玉名郡天水町)に生れる。

本名は池田正則

 昭和31年、芦北郡湯浦町出身で、当時荒磯部屋にいた十両の鎌錦為之助にくどかれて、38人目の横綱だった照国の荒磯が経営する荒磯部屋(のち伊勢ヶ浜部屋)に入門、同年5月郷里の天水村に因んで天水山と名乗り、初土俵を踏みました。


 伊勢ヶ浜部屋は「秋田にあらずば伊勢ヶ浜に非ず」とでもいえそうな秋田県出身者の多い部屋で、熊本県出身者は異色の存在であり、新弟子の頃言葉が通じなくて困ったそうです。

入門当時は体重が63㌔しかなく、とても新弟子検査の合格は無理と思われたが、約20日間の巡業中に何と12㌔も太り、検査合格にたっしたといいます

 入門当初の成績はなかなか優秀で、序ノ口で1場所負け越したほかは20場所の間負け越し知らずで、昭和35年7月には幕下に進みました。この間、昭和32年3月場所は序ノ口8戦全勝、優勝決定戦でプロレス出身の甲潟(のち天山)に敗れたが、優勝同点の好成績でありました。しかし幕下の上位ではなかなか勝てず足踏の状態でありました。

 昭和37年に入って勝ち越しが続き、昭和38年3月には四股名を本名の池田に改め、翌5月場所は東幕下6枚目で7戦全勝優勝をなしとげました。

今度の優勝を一番喜んでくれるのは鎌錦さんでしょう」と鎌錦によくけいこをつけてもらった当時をなつかしがっていました。当時の相撲解説者天竜三郎氏は、幕下以下で5月場所一番進歩したのは池田だと褒めていました。

翌7月に西十両15枚目に進み、ようやく十両入りを果したが、入門以来41場所目、実に幕下に29場所もいたのでした。同場所から四股名を再び天水山と改めました。


 十両に入っても叩くくせが抜け切れず、暫くは停滞したが、昭和40年の1月場所は11勝4敗、3月場所は西4枚目で大健闘、12勝3敗の好成績で十両優勝をなしとげました。同場所の千秋楽、12勝3敗の星で相星の高鉄山と優勝決定戦を行いました。相撲ファンで埋まった大阪府立体育館内で、郷土の声援を担った天水山は出足鋭く高鉄山を寄り倒して十両優勝、5月の新入幕を確定的にしました。

 5月に東前頭14枚めに入幕、初土俵以来9年、52場所目の入幕で、長い道程(のり)をよくも辛抱したものでした。
 新入幕の5月場所は、初日の前日に盲腸炎をおこし、散らしながら連日出場しました。6日目には幕内でただ1人5戦5勝で勝ち放しの、立浪部屋の新鋭176㌔の巨漢若見山と対戦、天水山は「褐色の重戦車」の異名そのままに若見山を押し出しに破りました。千秋楽には房錦を突き落としに破り、よく健闘して8勝7敗と勝ち越しました。-

 翌7月場所は西10枚目に進みました。しかし大きく負けがこんで9月には十両に落ちました。十両に11場所いて、昭和42年5月場所は東7枚目で13日目に優勝を決め、12勝3敗の好成績をあげて2回目の十両優勝をとげ、翌7月に西前頭十枚目に再入幕しました。

 ところが同場所は7勝8敗と1点の負け越しだったが不運にも翌9月には東十両1枚目に落ちました。ここで8勝7敗の星をあげ翌11月に東前頭11枚目に再々入幕しました。この場所は6勝9敗し、翌1月には十両に落ち、幕内と十両の往復が3度も続きました。

昭和43年9月には幕下に落ちて場所後に廃業しました。

 幕内の在位は4場所で、最高位は前頭十枚目。

全盛時代身長1㍍76、体重128㌔。丸っこい体でした。

押しはあまりなく、左4つで寄るという地味な取口でありました

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