2008年06月03日
『肥後(熊本)細川家』

洛中洛外図屏風「細川殿」
肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)
相撲司家と縁のある細川藩(細川氏)を、
御紹介して行きたいと思います。
御紹介して行きたいと思います。
細川氏は、和泉上半国守護家の出身の細川藤孝氏(幽斎)が、はじめ室町幕府15代将軍足利義昭を支えたが、のちに織田信長に属して姓を長岡と改め、丹後国12万石を領しました。
長男の忠興氏(三斎)は、紀伊雑賀攻めで初陣し、信長の部将として活躍しました。
本能寺の変では、妻・ガラシャの父・明智光秀に与せず、羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。 幽斎は古今伝授の継承者、忠興は千利休の高弟として、文化面でも重きをなしました。
秀吉の死後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)らの争いが始まると、東軍につき、ガラシャは西軍の人質になることを拒んで自害、幽斎氏は丹後田辺城で2ヶ月に及ぶ籠城戦を戦い、細川忠興は関ヶ原の戦いで活躍した。
戦後は細川姓に復し、功により豊前小倉藩39万9千石を経て、忠興の子・3代細川忠利の時代に肥後熊本藩54万石を領し、幕末まで237年統治。明治に至り侯爵となる。
肥後細川家には藩主一門重臣として長岡内膳家と長岡刑部家があり、支藩としては新田(高瀬)支藩と宇土支藩がありました。
また、上卿三家といわれる世襲家老、松井氏(長岡佐渡、代々八代城3万石の城代)・米田氏(長岡監物)・有吉氏の三家があり、いずれも藤孝時代からの重臣でした。
なお、常陸谷田部藩は支藩ではなく、独立の藩である。
8代細川重賢氏は、藩校時習館の創設や殖産興業など宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を行い「肥後の鳳凰」と称され、出羽米沢藩の上杉鷹山や紀伊紀州藩の徳川治貞(紀州の麒麟)とともに江戸時代中期の三名君とされる。熊本藩では江戸時代を通じて百姓一揆等が殆ど見られず農民は豊かであったとされています。
国宝保存会会長を務めた16代細川護立は「美術の殿様」といわれ、細川家伝来の多数の美術品や自らの収集品などを収蔵した財団法人永青文庫を開設している。近衛文麿の首相秘書官であった17代細川護貞は戦時中政治的活動も行い『細川日記』を残している。護貞は美術、華道、茶道の愛好家としても知られる。
みなさんがご存知の18代細川護熙氏は熊本県知事を務めた後、日本新党を結成し、1993年(平成5年)に内閣総理大臣となり非自民党連立政権を成立させました。