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2008年03月28日
【福の花孝一】

福の花孝一
土 俵 歴
土 俵 歴
昭和15年7月1日、菊池郡合志村(現菊池郡合志町)に生れました。
本名は福島孝一。
合志中学校を卒業したあと2年間家で農業をやっていたが、
姉の嫁ぎ先である菊池郡泗水町田島に農作業の手伝いにいっていたとき、
年寄不知火(元八方山)の親父さんが「わあー孝ちゃんの足のふとかー(大きい)、
こっだけ足んふとかならあんならよか体になっばい、相撲とりにはもってこいばい」
ということで、それからは『相撲とりに行かんかー』と大変ないわれようだったそうです。
なかなか本人がその気にならないので、今度は義理の兄から「はよいかんか、大阪に行け」といわれ、
今度ようやく本人が決心して行くといい出したら、母親や御近所が、みな反対しかし義兄一人に、みんな寄り切られてしまいました。かくして、昭和32年11月、九州場所が終わって熊本巡業があったとき、急遽出羽海部屋に入門。
昭和33年1月、本名の福島をそのままの四股名として初土俵を踏みました。御本人は、足が大きかったばかりに相撲とりになったみたいと述懐していたそうです。
昭和34年5月、東序2段27枚目のとき福の花と改めました。下積み生活が長かったがよく辛抱して、昭和39年5月場所は西幕下14枚目で7戦全勝、同部屋の福田山、津軽国と三つ巴の優勝決定戦を展開、両者に勝って幕下優勝をなしとげ、翌7月場所西十両18枚目に進みました。
新十両の場所は10勝5敗の好成績をあげ、以後十両では1場所全休したほかは全部勝ち越しました。部屋頭の佐田の山(のち50人目の横綱)から「孝一、孝一」と毎日のように本名を呼ばれてかわいがられました。
昭和40年9月東前頭14枚目に入幕しました。41年3月場所は東前頭5枚目に躍進しながら、2月のマカオ巡業で痛めた左膝の故障のためやむなく全休、東京渋谷の広尾病院のベッド生活を余儀なくされました。
昭和41年12月2日、菊池市の菊池神社において、菊池郡市福の花後援会長の有田義行菊池市長から、樫山南風画伯の作品「水前寺の鯉」を刺繍(ししゅう)した化粧まわしが贈られました。
その後ほぼ順調に進み、昭和42年3月場所は入幕10場所目で西小結に昇進し、初の三役入りを果しました。7月場所は2度目の西小結となり、11月場所は西5枚目で優勝争いに加わりました。
14日目を終わって11勝3敗の星は西横綱佐田の山と相星、東横綱大鵬は11勝ながら休場に入っており、東張出横綱柏戸は10勝4敗でありました。千秋楽に福の花は平幕でありながら三役揃い踏みに出場し、結び前の一番で柏戸に敗れて11勝4敗となったが、初の敢闘賞を受賞しました。なお優勝は北の富士を破った佐田の山でした。
昭和43年1月場所は3度目の西小結となり、3日目に横綱柏戸と猛烈に張って、柏戸が左前褌を取りにくるのを左にかわって更に突張り、柏戸がもろに叩くのにつけいって見事に突き出し、7回目の対戦で初めて柏戸を破りました。
ジリジリと力をつけていたが、昭和43年5月場所は東7枚目で4勝11敗と大きく負け越したため翌7月場所は7枚下げられて東十両2枚目まで落ちました。しかし捲土重来、10勝5敗の星をあげて1場所で幕内に返り咲き、以後引退するまで7年余、44場所にわたって幕内に在位して花々しく活躍しました。
その中心となったのは、昭和45年1月から49年11月までの5年、30場所で、この間に敢闘賞6回、金星獲得5個、番付の最高位東関脇1場所など輝かしい実績をあぜました。活躍の概要は次のとおりです。
昭和45年1月場所。東3枚目で6日目大関北の富士と対戦、福の花の右の張手一発が北の富士の左顔面に決まり、一発で北の富士を倒しました。まるでボクシングのKOシーンを見るかのように北の富士は膝から崩れていきました。
そんな福の花につけられたニックネームが“フックの花”で、本人もうまいことつけたもんだといっていましたが、四股名をもじった最高級のニックネームで、名付け親は内外タイムス新聞社の吉川亨氏でありました。
福の花は3段目時代、ボクシング不二拳ジムの会長岡本不二氏に「君、ボクサーになったら東洋チャンピオンを保証する」といわれたそうだが、土俵でそれを立証したのがこの一番でありました。
昭和45年5月場所。西4枚目で4日目東張出横綱玉の海と対戦、玉の海が右を差すと、福の花これをきらって激しく突っ張り双差しで出ました。玉の海は右を巻き替え土俵際で十分になったが、右から突き落としにいったのが悪く、腰がのび福の花の速攻の寄りに倒されました。福の花は初の金星。この日まで福の花は3戦3敗であったがこの1勝の初白星が初金星、反対に玉の海は3戦3勝であったのが初黒星となりました。8勝7敗で2回目の敢闘賞を受賞しました。
昭和45年7月場所。東1枚目(筆頭)で初日横綱玉の海と対戦、福の花は得意の右4つから左上手を浅く引きつけ、玉の海の堅腰を浮かして一気に寄り切り、横綱玉の海を2場所続けて破り、連続金星を獲得しました。
福の花にまたしても敗れた玉の海は「右4つ、上手を取ると強いよ、この頃すごく相撲が早くなった」といって福の花の地力を認めていました。
昭和45年9月場所。東2枚目で9日目横綱北の富士と対戦、福の花は北の富士が踏み込まないのにつけいり、あたって双差しを狙う北の富士の右を左からおっつけ、北の富士が引きをみせると、左差し右からおっつけて出足ばや一気に寄り倒しまた。
横綱に3場所タテつづけに土をつけ、3場所連続金星を獲得しました。
昭和45年11月場所。西4枚目で、関脇貴ノ花、小結黒姫山らを倒し11勝4敗で3回目の敢闘賞を受賞しました。この場所、出羽海部屋のホープ三重ノ海が関脇から落ちて、部屋には3役がいなくなりました。福の花はそれが悔しくてたまらず、名門の出羽海部屋をなんとしてでも昔のように隆盛にしたいと念願しており、そのために30歳という土俵年齢を超越して戦っていました。
昭和46年3月場所。西6枚目で10日目に勝ち越して、横綱玉ノ海、大鵬、大関琴桜についで幕内で4番目に給金をなおし、10勝5敗で4回目の敢闘賞を受賞しました。
昭和47年1月場所。西3枚目で、6日目に小結黒姫山、11日目に大関琴桜、12日目に横綱北の富士を倒すなどして、14日目まで10勝をあげ、琴桜、栃東と並んでトップに立ちました。千秋楽に輪島に敗れ10勝5敗となったが、5回目の敢闘賞を受賞し、4個目の金星を獲得しました。なお、千秋楽に琴桜は三重ノ海に敗れ、栃東は清国を破って11勝4敗で平幕優勝を飾りました。
昭和47年11月場所。東14枚目(幕尻)で8日目に二子岳を送り出して初日から土つかずで勝ち越し第一号となり、9日目には3役と当てられ、小結魁傑と対戦、破竹の勢いで強烈な左喉輪から右おっつけで魁傑を圧倒、9連勝して幕内単独トップに立ちました。13日目には3敗同士で新大関輪島と対戦、最後まで攻撃の手をゆるめず、寄り倒して完勝し、ベテランぶりを発揮、千秋楽には初の技能賞受賞が決定していた増位山と対戦、喉輪気味に激しく突っ張り、右の張り手で突き倒しました。かくて11勝4敗、幕内最年長でありながらよく頑張って6回目の敢闘賞を受賞しました。
昭和49年7月場所。東3枚目で7日目関脇魁傑と対戦、“3番相撲”をとり、場内を大いに沸かせました。2度とも右4つから福の花が寄って土俵際で福の花の左上手、魁傑の右下手の投げの打ち合い、行司木村正直の軍配は最初は福の花に、2度目には魁傑に上がったが、いずれも物言いがついて、同体と判定されました。3度目は力尽きた福の花が突き出されたが、34歳の老雄の健闘に惜しみない拍手が送られました。3度取り組むという珍しい勝負でありました。
昭和49年11月場所。西10枚目で10日目、麒麟児に対し、張り手を交えて突っ張り、一直線に押し出して給金直し第一号になりました。12日目は横綱輪島と対戦、突っ張って右4つ十分になって寄り立て、輪島が土俵際で左上手をとってこらえると福の花腰をぶっつけて寄り切り、5個目の金星を獲得しました。14日目には、11勝2敗で、横綱北の湖、小結魁傑と優勝を争っている小結若三杉(のち若の花)をどっと押し出しに破り、10勝をあげて7回目の敢闘賞を受賞しました。
11月の九州場所はご当所ということになります。そのためか九州場所では成績が良かったです。入幕以来、11回の九州場所を負け越したのは40年、46年と最後の場所となった50年の3場所だけであり、一方7回目の敢闘賞受賞のうち4回は、九州場所でありました。
「九州がいいのは、ご当所だからというわけじゃない、1年の最後の場所だということで気持ちが引締まるから」と好調の原因を語っていました。
昭和50年に入ると、勝ち越しの場所がなく不振が続きました。11月場所の千秋楽の一番がすむと、引き揚げる花道でサガリを高々とほうり投げ、両手を上げてバンザイ、観客の拍手にこたえました。そして弟弟子三重ノ海の初優勝と大関昇進確実を見とどけて引退を声明しました。ときに35歳でありました。
幕内の在位は10年余、61場所の長期にわたり、最高位は関脇。栃光の引退後の本県出身の力士の代表として活躍し、敢闘賞7回、金星5個、通算出場1257回などすばらしい記録を樹立しました。
全盛時代、身長1㍍83、体重135㌔。
竹を割ったような気性通り闘志満々、張り手を交えて激しい相撲をとりました。見ていてスカーッと気持ちのよい相撲でした。下積み生活が長かったが、いつまでも若々しく、豪快で気っぷのよい取り口は真面目な生活態度と並んで多くのファンを魅了しました。立派の一語につきる骨の髄からのお相撲さんで、出羽海部屋で先頭に立って若手をグングン伸ばしていきました。
昭和50年12月24日、日本相撲協会50周年記念に、初土俵以来の出場回数1257、終始敢闘、真面目な土俵態度に対して協会から表彰状が授与されました。
昭和44年1月場所後に智子夫人と結婚しました。夫人は相撲茶屋“和歌島”の娘さんで、昭和初期に活躍した、和歌山県出身、出羽海部屋の元小結和歌島の娘であります。和歌島は引退して年寄関ノ戸を襲名していました。福の花は先代関ノ戸の養子になって、引退して年寄関ノ戸を襲名しました。
関ノ戸襲名披露大相撲並びに断髪式は、昭和51年5月29日午前11時30分から蔵前国技館で行われました。現役時代の人気を表すかのように詰めかけたファンは何と7千人程でありました。披露大相撲では主催者を代表して、福の花後援会長の大久保武雄衆議院議員が「福の花関の根性は郷土の誇りである。
後に、関ノ戸を襲名するが、「いつまでも皆さんのご支援をお願いしたい」と挨拶しました。続いて、断髪式に入り、大久保衆議院、春日野理事長、横綱北の湖ら120人が次々と鋏を入れ、最後に師匠の出羽海親方が髷を落しました。
年寄関ノ戸は、やがて相撲協会の審判委員となってます。
2008年03月25日
【天水山正則】

天水山正則
土 俵 歴
昭和15年12月8日、玉名郡小天村(現玉名郡天水町)に生れる。
本名は池田正則。
昭和31年、芦北郡湯浦町出身で、当時荒磯部屋にいた十両の鎌錦為之助にくどかれて、38人目の横綱だった照国の荒磯が経営する荒磯部屋(のち伊勢ヶ浜部屋)に入門、同年5月郷里の天水村に因んで天水山と名乗り、初土俵を踏みました。
伊勢ヶ浜部屋は「秋田にあらずば伊勢ヶ浜に非ず」とでもいえそうな秋田県出身者の多い部屋で、熊本県出身者は異色の存在であり、新弟子の頃言葉が通じなくて困ったそうです。
入門当時は体重が63㌔しかなく、とても新弟子検査の合格は無理と思われたが、約20日間の巡業中に何と12㌔も太り、検査合格にたっしたといいます。
入門当初の成績はなかなか優秀で、序ノ口で1場所負け越したほかは20場所の間負け越し知らずで、昭和35年7月には幕下に進みました。この間、昭和32年3月場所は序ノ口8戦全勝、優勝決定戦でプロレス出身の甲潟(のち天山)に敗れたが、優勝同点の好成績でありました。しかし幕下の上位ではなかなか勝てず足踏の状態でありました。
昭和37年に入って勝ち越しが続き、昭和38年3月には四股名を本名の池田に改め、翌5月場所は東幕下6枚目で7戦全勝優勝をなしとげました。
「今度の優勝を一番喜んでくれるのは鎌錦さんでしょう」と鎌錦によくけいこをつけてもらった当時をなつかしがっていました。当時の相撲解説者天竜三郎氏は、幕下以下で5月場所一番進歩したのは池田だと褒めていました。
翌7月に西十両15枚目に進み、ようやく十両入りを果したが、入門以来41場所目、実に幕下に29場所もいたのでした。同場所から四股名を再び天水山と改めました。
十両に入っても叩くくせが抜け切れず、暫くは停滞したが、昭和40年の1月場所は11勝4敗、3月場所は西4枚目で大健闘、12勝3敗の好成績で十両優勝をなしとげました。同場所の千秋楽、12勝3敗の星で相星の高鉄山と優勝決定戦を行いました。相撲ファンで埋まった大阪府立体育館内で、郷土の声援を担った天水山は出足鋭く高鉄山を寄り倒して十両優勝、5月の新入幕を確定的にしました。
5月に東前頭14枚めに入幕、初土俵以来9年、52場所目の入幕で、長い道程(のり)をよくも辛抱したものでした。
新入幕の5月場所は、初日の前日に盲腸炎をおこし、散らしながら連日出場しました。6日目には幕内でただ1人5戦5勝で勝ち放しの、立浪部屋の新鋭176㌔の巨漢若見山と対戦、天水山は「褐色の重戦車」の異名そのままに若見山を押し出しに破りました。千秋楽には房錦を突き落としに破り、よく健闘して8勝7敗と勝ち越しました。-
翌7月場所は西10枚目に進みました。しかし大きく負けがこんで9月には十両に落ちました。十両に11場所いて、昭和42年5月場所は東7枚目で13日目に優勝を決め、12勝3敗の好成績をあげて2回目の十両優勝をとげ、翌7月に西前頭十枚目に再入幕しました。
ところが同場所は7勝8敗と1点の負け越しだったが不運にも翌9月には東十両1枚目に落ちました。ここで8勝7敗の星をあげ翌11月に東前頭11枚目に再々入幕しました。この場所は6勝9敗し、翌1月には十両に落ち、幕内と十両の往復が3度も続きました。
昭和43年9月には幕下に落ちて場所後に廃業しました。
幕内の在位は4場所で、最高位は前頭十枚目。
全盛時代身長1㍍76、体重128㌔。丸っこい体でした。
押しはあまりなく、左4つで寄るという地味な取口でありました。
2008年03月25日
【高錦 昭応】

【高錦 昭応(あきまさ)】
土 俵 歴
昭和9年2月12日、飽託郡川上村(現飽託郡北部町)に生れました。
本名は荒木昭応。
昭和23年2月27日、第39代横綱前田山が熊本市北千反畑町の吉田司家で横綱免許を授与されたとき、元陸軍大佐の北川氏の肝煎りで、前田山が2枚鑑札で経営する高砂部屋に入門、荒木山と名乗り昭和24年5月場所初土俵を踏みます。
ときに体重30貫(112.5㌔)、丸々と太った怪重で、
前田山に“将来東富士に次ぐ大物になる“と太鼓判を押されたといいます。
同年9月序ノ口。30年5月幕下5枚目のとき高錦と改めました。
昭和31年3月場所は東十両22枚目に進み、12勝3敗の好成績をあげて十両優勝をとげ、好調のスタートを切りました。
新十両で十両優勝というのは極めて稀な例で高錦の誇りの一つです。
次の2場所とも、10勝5敗の好成績をあげ十両はわずか3場所で突破し、昭和32年1月西前頭20枚目に入幕しました。
入幕後勝ち越しを続け、昭和32年9月には西11枚目まで上がりましたが、
その翌場所は盲腸炎のやめ全休、昭和33年7月場所まで9場所幕内をつとめ、同年9月十両に落ちました。
十両に5場所いて、昭和34年7月再入幕したが1場所で十両に落ちました。
以後十両を23場所つとめ、この昭和36年3月場所は西13枚目で12勝3敗の好成績をおさめ、
2度目の十両優勝をとげましたが、不運にも再々入幕は果せませんでした。
昭和38年7月幕下に落ち、幕下に3場所いて昭和38年11月場所を最後に廃業しました。
幕内の在位は10場所で、最高位は前頭11枚目。
全盛時代身長1㍍68、体重152㌔、超アンコ型で、
その巨腹は幕内、十両を通じ圧倒しており、「大もの」のムードがありました。
上背はなかったが、重量を生かし、右を差しての寄りが得意で、
当時、島錦、宮錦とともに「高砂の三錦」といわれていました。
2008年03月24日
【大関 栃光正之】

【写真は、殊勲賞の朝錦関(右)と、敢闘賞の栃光関(左)】
【大関 栃光】
土 俵 歴
昭和8年8月29日、
天草郡深海村下平(現牛深市深海町下平)に生れました。
本名は中村有雄。
昭和27年、18歳のとき、角界入りをすすめる人から
時津風、出羽海、春日野の3つの部屋のうち、自分がいいと思う部屋に入門すればいい、と言われたので、
天草出身でかつて幕下の上位までいった、元立浪部屋の力士荒浪の所に、
挨拶に行ったところ、
「立浪部屋に入れたいが、3つの部屋のうちどこかというなら春日野部屋だ。自分はあの部屋の栃錦とは一番の友達で、あの男は人間的にもいいし、いまは関脇だが将来は必ず横綱になる男だ。あの部屋に入ったらどうだ」
と言われたのが、動機となって同年5月1日、春日野部屋に入門しました。
その翌日、師匠の春日野(27人目の横綱栃木山)は「栃光」という四股名をつけました。
以来引退するまで栃光でとおしました。なお、親方夫人は字画をみて「栃光」の下に「正之」と加名。
当時、春日野部屋には、関脇栃錦や鳴門海がおり、本家の出羽海部屋には横綱千代の山をトップに出羽錦らがいて栃光はけいこ台に恵まれ、早朝から黙々とけいこに励みました。
その熱心さと、いくらやってもへこたれないところから「べコ」という綽(あだ)名がつけられました。
ベコとは東北の言葉で牛のことです。独特のハズ押しで「大正の名横綱」といはれた春日野は栃光を自分の後継者にしようと考えて、両脇に藁(わら)を挟ませ、それを落とさないように押させて押し相撲に専念させ、厳しく指導しました。
大関栃光は入門する前、炭坑に使う坑木を背中いっぱい山から担いで登ったり降りったりしていた仕事に比べると相撲のけいこはそんなにきついとは思わなかったと述懐していました。
昭和27年5月初土俵を踏み、番付外で前相撲をとり、3戦3勝して一番出世をし、
ついで新序の口西1枚目で番付にのり2勝1敗と勝ち越しました。
翌9月場所は序二段に進み、7勝1敗の好成績、昭和28年1月場所は東3段目42枚目で7勝1敗で優勝同点、5月場所も同様の成績をあげ、9月には西幕下38枚目に進み、29年3月場所は8戦全勝で幕下優勝を遂げました。
初土俵から幕下まで3年足らず、8場所の成績は負け越し知らずで、勝率は79%、後年の大横綱大鵬のそれは14場所で勝率は78.9%で栃光には及びませんでした。「 栴檀 は双葉より芳し」の喩えどりでありました。
昭和29年5月、20歳の若さで東十両22枚目に進みました。
初土俵から短期間であったため髷がのびきらず関取のシンボルである大銀杏が結えず、床山を泣かせたという。
十両に入って、10勝5敗、11勝4敗、9勝6敗と順風満帆の快進撃を続け、昭和30年3月場所(大阪)は西3枚目で15戦全勝優勝の金字塔を樹立しました。
同場所は初日から破竹の勢で、白星街道を驀進(ばくしん)し、15人を悉く薙ぎ倒し勇名を全国に轟かせました。
十両では全勝優勝は至難の技で、それまでの記録も、昭和4年1月場所の武蔵山、昭和9年5月場所の出羽湊、昭和10年1月場所の(いずれも出羽海部屋)の11戦全勝があったが、
15日制になってからは栃光によってはじめて樹立され、大相撲史上にのこる驚異的な記録であり、その後も昭和36年11月場所の豊山(現時津風)と昭和38年11月の北の富士(現九重)の2人しか樹立していません。
昭和30年5月には、11枚上がって東前頭13枚目に入幕しました。ときに21歳、初土俵以来3年、13場所目のスピード入幕でありました。大麻唯男氏の肝煎りで永田大映社長から贈られた化粧まわしをつけて土俵入りし、また兄弟子栃錦の横綱土俵入りには露払いをつとめました。太刀持ちは鳴門海でした。
新入幕の場所は、10勝5敗の好成績、昭和31年1月場所は西2枚目に進んだが惜しくも一点の負け越しでした。しかし4日目には初挑戦の横綱吉葉山を倒して初の金星を獲得しました。
その後そばらく不振が続いたが、昭和32年1月場所は西6枚目で、6日目から白星が続き、14日目にはライバルの若羽黒と対戦、「はりま投げ」という珍しい手で破って10連勝し、12勝3敗で準優勝、初の雷電賞(注)を獲得しました。
(注) 雷電のごとき強豪いでよしと願望をかけて、読売新聞社出版局が昭和30年春場所(3月)から制定したもので、受賞資格は関脇以下の幕内最優秀者、昭和40年の九州場所(11月)まで続きました。重量15㌔の軍配型大楯。
第1回の大関への挑戦
昭和32年3月場所は西小結に昇進し、初の3役入りを果しました。
しかし惜しくも負がこみ、5月には西1枚目(筆頭)に落ちました。
同場所は再び吉葉山を、9月場所には鏡里を倒して金星が2場所続きました。昭和33年11月から昭和34年9月まで6場所連続して勝ち越しました。
この間、昭和34年5月場所は西関脇で、新横綱朝潮に土をつけるなどして10勝5敗、初の敢闘賞を獲得しました。次の7月場所も10勝5敗で、関脇3場所目の9月場所を迎えました。朝潮の新横綱昇進によって同年5月からは大関は琴ヶ浜一人で、大関昇進の千載一遇の絶好のチャンスでした。
ところが栃光は昭和32年に小結になってから蕁麻疹(じんましん)になやまされ、この大事な9月場所にもまたそれが出てきて8勝7敗とやっと勝ち越しました。翌11月場所は5勝10敗と大きく負け越し、4場所確保した関脇の座を明け渡し、35年1月には平幕に落ちました。
昭和34年の暮、師匠春日野が亡くなり、栃錦が現役のままであとを継いで春日野親方となりました。現役で年寄を兼ねた2枚鑑札でありました。新春日野の栃錦は、栃光に、土俵のこと、大関のことなどはいっさい考えず病気を徹底的に治すことが先決といいました。
栃光は病院で精密検査も受けなおし、注射はもとより、漢方薬をはじめ効能のある薬は片っ端から取り寄せてあらゆる治療をやり、また、祈祷師(きとうし)に頼んで、゛呪い(まじな)゛をかけてもらったことさえありました。さらに食事には何よりも細かい神経を使いました。
栃錦夫人は栃光用の料理をみずから作ってくれたり、特製野菜ジュースを拵(こしらえ)るなど気を使いました。それでもひどい蕁麻疹は容易に治りませんでした。
第2回の大関への挑戦
昭和35年は、4場所も負け越しが続きました。昭和36年に入るや、3月場所は朝潮を倒して4個目の金星と初の殊勲賞、7月場所は10勝5敗で2回目の敢闘賞、9月場所は西関脇に返り咲き、5場所連続勝ち越して2回目の大関への挑戦が到来しました。
しかし関脇2場所目の11月場所は3勝12敗と大きく負け越し、大関への足がかりを逸してしまいました。
このころ、柏戸、大鵬は大関、横綱に、若羽黒、北葉山は大関に昇進し、栃光を追い越していきました。
栃光は大抵なら引退か廃業であるが、真面目一徹気質は、気を腐らせることも、酒に溺れることもなく、以前にも増してけいこにけいこを積んでいきました。このころ、熊本場所に先乗りとしてやってきた春日野親方は「栃光はいま迷いのときで、一番苦しいときだが、これを克服できると思っている。迷いから抜け切ったときこそひと花咲かせてくれる。かれは私が請合う」と自信に満ちて語りました。
第3回の大関への挑戦
昭和37年に入るや、1月場所から好調なすべり出しで11勝4敗、3月場所は西小結で、若乃花、柏戸の両横綱をも倒して10勝5敗、2回目の殊勲賞を獲得し、春日野親方がいったようになってきたのです。
そして次の5月場所は西張出関脇で、初日以来5連勝の好調スタート、柏戸、大鵬の両横綱、大関北葉山らを倒して入幕以来最高の堂々たる勝星をあげました。
3日目横綱柏戸と対戦。柏戸は左喉(のど)輪(わ)で右から攻めたてたが、栃光はよく堪(こら)えて双差し、柏戸は右を巻き替えにいったが栃光はうまくおっつけ、また双差し、柏戸が両小手から抱えて寄り立てるのを栃光は腰を落して懸命に残し、柏戸が右上手をとりにきた瞬間をさっと右下手投げをうつと見事にきまり、柏戸の巨体は宙に舞って落ちました。
12日目横綱大鵬と対戦。栃光は気合をこめ、体を丸めて思いきりぶちまかし、次に突きまくると、大鵬は腰の備えが崩れてみるみる後退し、剣ヶ峰につまったが、柔かい体にものをいわせて堪え、土俵際で右から引っ張り込み、左をのぞかせて掬い投げにいくと栃光は土俵際で倒れそうになり、大いに危なかったが、よく堪え、右足を踏み込むと大鵬の腰が砕け、そこを栃光はつけいって右からおっつけ左ハズで押し倒しました。
この場所は出羽一門の佐田の山(同場所大関に昇進)、栃ノ海、栃光(ともに関脇)のトリオの活躍はすばらしく、栃ノ海は14勝1敗で優勝、敢闘賞、技能賞及び雷電賞、佐田の山、栃光はともに13勝2敗で準優勝、栃光は3回目の殊勲賞。優勝、3賞及び雷電賞を春日野部屋で独占しました。
昭和37年に入って栃光の3場所の通算成績は34章11敗、勝率は7割5分、栃ノ海のそれは33勝12敗、勝率は7割1分でした。
昭和37年5月23日朝、日本相撲協会の使者白玉理事と甲山(かぶとやま)検査役が春日野部屋に到着、紋服の正装で迎えた栃ノ海、栃光に対し、「本日の番付編成会議で満場一致大関に推薦されました」と伝えました。両者揃っての大関昇進でありました。栃ノ海、栃光は頭を下げて「有難くお受けします」と答えました。
そのあとで栃光は
「大関として恥かしくない土俵をつとめたい。これからは栃ノ海関の胸を借りて頑張ります」
と弟弟子である栃ノ海を褒め、その胸を借りてとまでいいました。
大関栃光の誕生、この日こそ生涯最良の日であり、ときに28歳でありました。
蕁麻疹になやまされながら、苦難に耐えて一歩一歩と克服していった精進努力、それは小野道風(おののとうふう)と柳に飛びつく蛙の図で、大関という柳に飛んでは落ち、飛んでは落ちたが、ついに七転八起の末大関の栄冠を手にしたのでした。
5月場所の栃光の相撲と大関昇進について相撲評論家の彦山光三氏は「従来、出だしの一発はいいけれども、あとの一発は足が出なかった。それがこの場所は足が出すぎるくらいにでている。どの相撲に勝ったのもみんな出足のせいで、これは意地だと思う」と。
また、昭和初期の関脇天竜三郎氏は
「栃光に花が咲いたということは、相撲界ばかりでなく、他の一般社会にもいい刺激になると思う。栃光の躍進は全部のいい指針になると思う」
と褒め称えました。
熊本県からは不知火光右衛門以来百年ぶりの大関の誕生で、県下の喜びはひとしお、とりわけ郷里牛深市は沸きたち、大関昇進を祝う約3000人の旗行列が盛大に行われ、祝賀一色で栃光ブームは最高潮に達しました。
新大関の7月場所は西張出大関で好調のすべり出し、初日から4連勝し前場所に続き柏戸、北葉山を破るなどして11勝4敗、次の9月場所は東大関となり5大関のトップに立ちました。同場所は11勝4敗、次の場所は10勝5敗と2桁の勝星をあげていきました。
同年12月には熊本に大関としてお国入りし、熊本市の水前寺体育館で開催の熊本場所に臨みました。体育館の土俵上で熊本県栃光後援会長の伊豆富人氏から大関昇進のお祝いに海老原画伯が精魂をこめて描いた「銀色の地に煙はく阿蘇の山」の絵の入った豪華な化粧まわしが贈られました。11日には郷里天草に渡り、本渡市の中心街をオープンカーでパレード、市内は栃光一色で、『島の英雄』に限りない声援がおくられました。
大関の栄位にのぼった昭和37年は、年間多勝は90戦して66勝をあげ、大鵬、佐田の山についで柏戸とともに第3位でした。
大関5場所目の昭和38年3月場所は、8日目に給金をなおして勝ち越し1号となり、大鵬と富士錦に敗れたが、大鵬に次ぐ13勝2敗の準優勝でした。
昭和38年7月場所は前半戦で早くも3敗をきっしたが、後半には完全に立ち直り大鵬を破りました。7場所連続優勝を狙っていた大鵬は栃光に敗れて3敗となり、優勝圏内から脱落しました。
14日目には破竹の勢いの北葉山を破って一門の僚友佐田の山の援護射撃をつとめ、優勝を千秋楽に持ち込ませました。優勝決定戦で北葉山が勝って優勝、第2位は佐田の山、第3位は12勝3敗の大鵬と栃光でした。
昭和39年3月場所は、5日目清国との一戦で左肘を痛め、土俵は冴えず初土俵から60場所、851回の連続出場の記録もストップし10日目から休場しました。しかし、次の5月場所は11勝4敗、7月場所は12勝3敗で第3位でありました。
昭和40年に入るや、1月場所は11勝4敗で、この場所から部屋別取組が実施され、7日目に一門の出羽海部屋の佐田の山と対戦、寄り切りで破りました。
しかし、その後は不振で、9月、11月と2場所続けて負け越し、昭和41年1月場所は大関カド番に立って場所に臨みました。
当時は大関は3場所連続負け越さなければ落ちなかったので、栃光はその3場所目をこの1月場所に賭けました。
しかし、場所前から体力も弱っていて、稽古しても思うようにいかず、9日目に7敗となり崖っぷちに立たされました。
10日目には、北葉山、11日目には、新鋭北の富士を降してピンチを切り抜け、そして12日目に優勝争いのトップに立つ柏戸と対戦しました。
栃光は柏戸の胸板めがけてぶちかまし、柏戸は踏み込んで前褌(まえみつ)を狙った。
栃光は左を差し勝つと右も入れて双差しとなり西に寄ったが、柏戸は左に回り右巻き替えをねらった。強引に押され栃光は、右ひざから落ちました。
これで8敗となり3場所連続負け越しとなり22場所務めてきた大関の座を明け渡します。
大関陥落の一番であったにもかかわらず、『よくやった!』と大歓声と拍手を浴びたた大関は栃光だけだったでしょう。
負け越してしまい、大関陥落が決まった後、14日目には大関豊山を万全の構えで寄り倒し、負け越し決定の大関が、これだけの大一番を取るのは非常に稀で、引退目前の栃光の執念を存分に発揮した勝負でした。
千秋楽には、富士錦に敗れ、5勝10敗となり、最後の土俵を白星で飾ることは出来なかった。
燃え尽き、限界に達っした栃光は、全国のファンから惜しまれながらも引退を発表しました。
そして昭和41年2月2日 栃光は春日野部屋で引退を発表したのでした。
大関栃光ときに、32歳の時でした。
幕内の在位は11年余り、60場所、勝率は5割4分7厘、殊勲賞3回、敢闘賞2回、大関在位は3年余り、
横綱大鵬を多く倒した力士の順位は第3位でした。
手を着いて立つ、待ったをしない、終始一貫した、綺麗な立会いは、大横綱双葉山に次ぐといっても過言ではないでしょう。
年寄千賀ノ浦襲名披露記念、大相撲並びに断髪式は、昭和41年6月4日正午から蔵前国技館で執り行われました。
断髪式では、村木武夫栃光後援会長をはじめ、山口喜久一郎衆議院議長、園田直衆議院副議長、松田文部大臣、力士会長横綱大鵬ら70名が次々に挟みを入れ、最後に師匠の春日野親方が髷を落した。
年寄千賀ノ浦は、やがて相撲協会の審判員を務め、一方、出羽一門すなわち、出羽海、春日野。三保ヶ関の三部屋の後進の指導にあたっていた所、昭和52年3月28日、42歳の若さで没しました。
大変惜しまれながら、多くの角界関係者に見送られた式典でした。
史跡
東京都墨田区千歳2-4-7 東日山西光寺にあります。
生前に、大関が子供を連れてよく散歩に来ていたその縁で、ここが墓所に選ばれました。
顕彰碑
荒滝五太夫の所で述べたように、荒滝と栃光の縁の碑は、芦北郡津奈木町赤崎に建立されています。
銅像
本渡市の本渡諏訪神社境内に、昭和55年12月7日、大関栃光顕彰事業期成会によって建立されました。
また、青年時代に力試しをした故郷牛深市深海町の下平神社の力石の1つが銅像建立を祝って寄贈され、副碑として建立されています。
序幕式には、当時開催中の本渡場所に出場中の横綱若乃花、北の湖、輪島以下34人の幕内力士が参列、かつての僚友佐田の山の出羽海は、
『爽快たる君が雄姿銅像となり、郷里天草のこの聖地に、建立すること、まさに力士の本懐であり、心からなる祝意を表すものであります。』
と切々たる追悼の辞を述べました。

2008年03月21日
【潮錦義秋】

潮錦義秋
土 俵 歴
大正13年9月25日、下益城郡隈庄町下宮地(現下益城城南町)に生れました。
本名は村上義秋。
子供のころから相撲に慣れ親しみ、その怪力ぶりは近所の評判でありました。
小学校を卒業するころ、熊本市出身の荒汐卯三郎親方(元 殿(しんが)り)に、
昭和15年秋17歳のとき荒汐部屋に入門し、昭和16年1月、本名の村上をそのまま四股名として初土俵を踏みます。
同期には鏡里(のち42人目の横綱)や松登(のち大関)がいました。
やがて荒汐は部屋経営をやめ、
力士をあげて横綱双葉山が経営する双葉山道場に合併したのでその所属となり、
双葉山が引退して年寄時津風を襲名してからは時津風部屋の所属となりました。
同部屋には先輩の不動岩がいました。3段目には5場所いたが、4場所目に荒汐の「汐」の1文字をもらって「汐錦」と改め、
それから2場所目に幕下に上がり、4勝1敗と好成績を残したところで応召しました。
昭和20年6月と11月の2場所は兵役と未帰還で星取表もブランクになっていました。
幕下に上がって、これから伸びるという肝心なところで兵役にいって、その期間も長く、ひところは戦死まで伝えられ部屋一同身を案じていました。しかし無事に帰還し、昭和21年11月、幕下別格で再出発したのでした。
空白を取り戻すために非常な努力をし、その後は順調に勝ち進み、5場所目の昭和23年10月の大阪場所は、
西十両11枚目に進みました。同門の鏡里はもう幕内のパリパリではるか前方をつっ走っていました。
十両に10場所在位したが、5場所目の昭和25年1月、西8枚目のときに潮錦と改めました。
昭和26年5月場所は千秋楽に大山部屋の新鋭松登と対戦し、惜しくも敗れて11勝4敗となり十両優勝を逸しました。
しかし次の9月場所は千秋楽に立浪部屋の小坂皮と十両の優勝決定戦を行い、
得意の上手投げに小坂川を破って13勝2敗の好成績をあげ、十両優勝を遂げ、
翌27年1月前頭15枚目に入幕しました。
入幕2場所目の27年5月場所の11日目には出羽海部屋の巨漢(1㍍94、180㌔)大起(おおだち)と対戦しました。
大変な大相撲で、物言いがついて取り直しが2度、水入りが3度、相撲にして3番、6回も組み合ったが勝敗きまらず、ついに引き分けとなりました。この場所両力士とも7勝7敗1引き分けの星となるという大一番でした。
軍隊生活3年のブランクに加うるに両腕の神経痛が完全に治らず、その為に実力の発揮がやや遅れたが、
昭和28年3月と9月場所はそれぞれ11勝4敗の好成績をあげ、幕内の中堅に進出して活躍しました。
昭和34年5月場所は、西前頭4枚目ですばらしい活躍、会心の相撲で「潮錦旋風」を巻き起こしました。登場するときの拍手喊声はまさに横綱級で、土俵を沸かし、「今場所の潮関はどうしたことか強すぎて手に負えない」と相手力士が驚くほどでありました。
役力士との対戦の状況は次のとおりです。
2日目小結若前田と対戦、18番の上手投げで横転させました。
3日目新横綱(46人目)朝潮と対戦、互に踏み込んで5分に立ったが、朝潮は左からおっつけて寄って出ました。
しかし朝潮の上手投げに脅かされて出足がとまり、がっぷり右4つ、ここで一呼吸入れた朝潮が腰高のまま寄って出ると潮錦はつまったが左へ回り込んで、豪快な上手投げをうてば朝潮の巨体は土俵下まで転落しました。
投げの威力を百㌫発揮して新横綱に初の黒星をつけて初の金星(注)を獲得しました。「横綱を一度はきれいに投げてみたい」といっていた念願がかなったのでした。
(注) 平幕力士が横綱を倒すことで、その殊勲に対して持ち給金が加算される。
4日目結びの一番で横綱栃錦と対戦、8分51秒3という長い大熱戦で2度まで水入りで土俵を大いに沸かせ、10分後取り直しとなりました。結果は栃錦の上手投げに敗れたが、潮錦の左肩には栃錦の歯型が5㌢ほどついて血がにじんでいました。「栃錦の顎が押しつけてきて歯が当るので痛かったがこっちの顎が上がっては大変だから我慢した」と述懐し、大熱戦を物語りました。
5日目横綱若乃花と対戦、左四つから若乃花充分となり、潮錦に上手を与えず寄り進みました。潮錦が土俵際で左下手出し投げを打つと若乃花は大きく傾き、ようやく右上手投げで打ち返しました。潮錦は惜敗したが若乃花を苦戦に追い込み、大変な善戦で会場を沸かせました。
快調の栃錦、若乃花の白星のうちで、もっとも冷や汗をかいたのは対潮錦戦でありました。
6日目大関琴ヶ浜と対戦、業師(わざし)の大関を見事に寄り倒しました。
この取組にはいくつかの懸賞がつき「こんなことははじめて」と潮錦は苦笑していました。
9日目関脇栃光との対戦、どちらも新横綱朝潮に土をつけている熊本県出身同士の対戦、左4つから水入りの取り直しの大相撲となり、潮錦が寄り立て、栃錦が左下手投げにいくハナを潮錦は右外掛けで破りました。
知りすぎているはずの栃錦は「こんなに強いとは思わなかった」とこぼしました。
潮錦は、5月場所のはじまる10日程前、部屋のけいこ場で、肋骨(あばらぼね)の一番下に俗に相撲の言葉でいう「メリケン」(筋肉炎)が入りほとんど左に体を捩ることができない程で、初日以来、手拭のような大きな絆創膏を張っており、普通より悪いコンディションでのぞんだ場所でした。
それがものの見事に横綱、大関を倒したのは、彼本来の底力であったとみてよいでしょう。35歳に近い年齢にもかかわらず9勝6敗の内容のよい星をあげて苦節10年、初の殊勲賞を獲得し、翌7月には小結に昇進し、初の役入りをしました。
5月場所の潮錦の相撲について、いつも手厳しい評価をすることで有名であった相撲評論家の彦山光三氏は「きまじめな性格で黙々とやってきたのがやっと芽がでたのだ。たとえこの調子が今場所だけの一時的な現象だとしても今日ただいまの潮錦を心から賞賛したい」と。
また、元横綱東富士氏は「今場所土俵を沸かしてくれた殊勲賞の潮錦、これはあの年齢で何もいうことはない」と褒め称えました。
その後、幕内に12場所在位し、中堅どころを往復しましたが、
昭和36年3月、5月、7月と3場所不振が続き、9月には十両に落ち、翌11月場所は全休し、
場所後に20年の土俵生活に別れを告げて引退しました。ときに37歳でした。
幕内の在位は10年、46場所、最高位は小結。殊勲賞1回。
全盛時代身長1㍍83、体重110㌔。
筋骨たくましく、仁王様と呼ばれた程の体格で、引き締まった筋肉はスポーツマン典型の体でありました。
左を差し、右で上手を取れば投げ、捻り、吊りの怪力ぶりを発揮し、壷(つぼ)にはまった時の豪快さは見事でありました。
古武士のような風格と、勝っても負けても悠々とした土俵態度、堂々と胸を張って花道を引き揚げる姿は見る者に好感を与え、土俵マナーも立派で、さがりをさばくときの男性的な手さばきは一服の清涼剤でした。
古武士的な顔は端正で品があり、鎧を着せ槍を持たせてみたかった。「戦国武将」「古武士」「左1本で相撲を取る」「読書家で哲学書を繙(ひもと)く」など数々の話題をなげました。
引退後は年寄式守秀五郎(式秀)を襲名しました。
昭和37年2月1日正午から蔵前国技館で引退、式秀襲名披露大相撲並びに断髪式が行われました。
東京後援会の上塚司、細川隆元、五味康祐等についで、力士代表の横綱若乃花、柏戸、最後に時津風親方(元横綱双葉山)が髷を落しました。
昭和39年3月から勝負検査役(現審判委員)となり、20年以上も勤めました。
立田川親方(元横綱鏡里)が時津風部屋から分離独立したとき行動をともにし、
立田川部屋所属となったが、再び時津風部屋所属に戻りました。
2008年03月14日
【不動岩三男】

不 動 岩 三 男
土 俵 歴
大正13年8月6日、熊本市藪ノ内町に生れました。
本名は野田三男。
父親の勤務の関係で、旧満州(現中国東北部)の新京市に住み、新京商業学校に学び、長身を利して野球の1塁手をつとめていたのを引退直後の元大関鏡岩(年寄粂川)に見い出されて粂川部屋に入門しました。
昭和15年1月場所前の新弟子検査のとき、1㍍98、100㌔もあったといいます。昭和15年1月初土俵を踏み、昭和16年5月東序2段68枚目のとき本名の野田から不動岩という雄大な四股名に改めました。
昭和16年11月、立浪部屋の横綱双葉山は粂川部屋に双葉山道場の看板を掲げて独立しました。これは親友の粂川が双葉山の人格、趣旨に共鳴し「部屋も弟子も譲る」という好意を示したからでした。
道場としたのは、双葉山が現役だったためです。そして、昭和18年秋、双葉山は福岡県の大宰府に双葉山道場をつくり「双葉山相撲練成道場」という看板を掲げ、粂川部屋はこの道場に合併しました。そのため不動岩の所属も双葉山道場に移りました。
厳しいうちにも無限のあたたかさが籠もる御大双葉山のよき指導によって道場の若者達は道場に所属していることに誇りをもって相撲道に精進し、心身ともすくすくと成長し、そのなかにあって不動岩も毎場所好成績をあげて早くも幕下に進みました。
昭和19年1月場所は、西幕下16枚目で8戦全勝、幕下優勝を飾りました。将来は横綱の器として大麻唯男氏が中心となって十両入りする前から大々的に後援会をつくって励ましました。
翌5月には一躍27枚上がって西十両4枚目に進みました。
この5月場所には、新十両が幕内の十勝岩(のち年寄湊川)と顔が合うという珍しい取組が行われ、不動岩は十勝岩に敗れたが、それでも6勝4敗の成績をあげ、十両は1場所で同年11月には東前頭18枚目に入幕しました。
入幕して3場所目の昭和20年11月には西小結となりました。ときに21歳2ヶ月で、新小結では後年の大横綱北の湖の19歳7ヶ月、大鵬の20歳には及ばないが、当時としては大変若い役力士でありました。
同場所は5日目横綱照国と対戦、敗れたが水入りの大熱戦を演じました。翌6日目には横綱安藝ノ海と対戦し、安藝ノ海は左差しにいったが果せず、仕方なく左上手を取って上手投げ左外掛けと攻めました。これを不動岩はよく残し、安藝ノ海が右で前褌を引くと不動岩は左でかかえた。このあと安藝ノ海が左を巻き替えて寄り、不動岩の上手投げを左外掛けで防いでさらに寄って出ました。しかし、この寄りは強引すぎたため腰が伸び、不動岩の大きな右上手投げに安藝ノ海は屈してそまいました。
昭和20年11月、双葉山が引退して、年寄時津風を襲名してからは時津風部屋の所属となりました。昭和21年11月には関脇に進み、東富士、千代の山らと並んで次代を担うものと期待され、 『 巨人大関出現か! 』 ともいわれました。
しかし、その後は10勝5敗の好成績の場所が1場所、7勝4敗が1場所、9勝6敗が2場所みられたものの全般的に不振で、昭和27年9月には十両にいて昭和29年1月場所限りで引退しました。
不振の原因は、長身力士にありがちの下半身の脆さと、勝ち身の遅さにあり、さらに内臓疾患もあったといわれています。
幕内の在位は約8年、19場所で最高位は関脇。
全盛時代身長2㍍14、体重125.6㌔。
昭和相撲界第一の巨人で、『 昭和の大空武左衛門 』といわれ、戦後唯一の「七尺男」で、戦中、戦後の土俵に一異彩を放ちました。
蔵前国技館の吊り屋根の房が、はじめ七尺の高さにセットされたが、不動岩の髷の先が觸れるのでさらに高くしたとのことであります。
左4つ、身長を使っての吊り出し、また上手投げに威力がありました。
引退後は、師匠ゆからの名年寄粂川を襲名して勝負検査役を長くつとめました。年寄はのちに武守秀五郎(式秀)にかわりました。昭和37年1月廃業して熊本に帰り、熊本開発会社の監査役などをしていたが、
昭和39年4月15日39歳の若さで没しました。
明朗で頭がよく、超巨人だけにジャイアンツファン、一般紙一部とスポーツ紙4部程を毎日3時間かけて隅まで読みあさる程のスポーツ通だったそうです。
史 跡
熊本市南坪井町1-21白毫山専光寺納骨堂
不動院釋大心居士
野田三男 小川敏子之弟
昭和三十九年四月十五日寂 (家の過去帳)
逸 話
けいこあがりに日本酒を二、三杯あおるのが楽しみ。巨人にふさわしくコップ一杯は必ず一息で飲みほしました。6升の酒と一貫目の肉を2時間ほどで平らげ、残った2升をおみやげに持ち帰って評判になったことがありました。
和歌山県白浜巡業のとき、雨で巡業が順延になったので、つれづれなるままに関取衆が集って、「不動岩関は1升ビンの酒を一息で飲めるかどうか」という賭(かけ)けをやりました。飲める方に賭る力士は一人もいない。すると不動岩が「よし飲めるほうに賭けよう」といって1升の酒を冷のままビンから口飲みでトクトク…と息もつかせず飲みほしました。
2008年03月14日
【昭 和 へ・・・・】

昭 和 時 代 へ
八方山主計(かずえ)
土 俵 歴
大正6年5月5日、菊池郡田島村(現菊池郡泗水町)に生れました。
本名は安武計といいます。
同郡西合志村(現西合志町)の剣道家緒方武氏の道場「護国殿」に通って剣道を学び、将来は剣術道に進むつもりだったが、師匠の緒方氏は彼の堂々たる体軀から将来力士として有望だと感じ、在京の徳永為次氏(吉田司家の故実門人)に紹介、さらに藤島親方(元横綱常ノ花)に話が持ち込まれます。
昭和8年10月熊本市へ武蔵山(のち33人目の横綱)一行が巡業にきたときそれに加わり、17歳で出羽海部屋に入門し、昭和9年1月初土俵を踏みました。
昭和10年1月、安武の本名で序ノ口、ここで2番勝ち越し、次の場所は序2段の中位に立って、羽黒山(のち36人目の横綱)に1敗しただけで4番勝ち越しました。このとき彼の躍進を誰もが期待していました。
ついで3段目と順調に出世しましたが、昭和12年1月幕下で左膝を痛め思わぬ大怪我に見舞われます。
とても相撲はとれないと医師に診断されたが、出羽ノ花、大邱山といった部屋の関取衆に励まされて再起を誓い、昭和12年5月3段目へ落ちはしたものの4場所目の昭和14年1月幕下へ復帰しました。
昭和14年5月東幕下4枚目のとき四股名を本名の安武から八方山に改めました。昭和15年5月場所は十両に昇進、同場所は10勝5敗の好成績をおさめました。十両昇進にあたり細川侯爵家から幸先よかれと二つ引の化粧まわしが贈られました。
昭和15年の第10回大日本相撲選士権大会では2部で優勝しました。
昭和16年1月場所は東十両3枚目で9勝6敗の好成績をあげ、10両2場所目の同年5月には、晴れて東前頭21枚目に入幕しました。ときに24歳でした。初土俵から7年目の苦労を積んでいました。
徳永為次郎氏は入幕を祝して次の詩を詠じました。
寄八方山入幕
東肥力士出家郷
修錬功成獲瑞章
偏喜八方山嶽譽
柢應奮勵纒巨網
入幕した昭和16年5月場所は7勝7敗1預かりの成績でありましたが、この預かりは4日目美男力士といわれた鯱ノ里との1戦でありました。
左四つに組んだあと、八方山が吊ると、鯱ノ里は右外掛けで防ぎ、土俵中央でもみあいました。そして鯱ノ里が再度右外掛けで攻めて寄ると、八方山は左に打棄り、軍配は八方山に上がったが物言いがつき、協議の末取り直しとなりました。再戦は、鯱ノ里が付いて出ると八方山は双差しとなりました。しかし鯱ノ里は左を巻き替え、左四つとなって寄り合いました。このあと鯱ノ里が外掛けに出ると、八方山は左へ打棄りました。軍配は鯱ノ里に上がりましたが、物言いがついて協議の末勝負は預かりとなりました。
入幕3場所目の昭和17年5月場所は5日目に初日以来4連勝と破竹の勢いの強豪大関前田山(のち39人目の横綱)と対戦しました。前田山が右を差し、左で抱えこんで一気に寄りたてました。八方山は棒立ちのまま土俵いっぱいにつまって必死に左に回りながら突き落とすと、前田山は左手をつき、八方山も土俵を割りました。
軍配は八方山に上がり、物言いがつき検査役が協議した結果、物言いは成立せず八方山の殊勲の白星となりました。
昭和17年5月場所に同部屋の安藝ノ海が横綱(37人目)になり、八方山はその土俵入りの露払いをつとめました。
昭和22年11月場所は好調のすべり出しで、新鋭・古豪を向こうにまわして星争いの総当り戦でよく健闘、9日目の終了時で、東横綱の羽黒山と西11枚目の出羽錦が8勝1敗でトップ、西8枚目の八方山、16枚目の栃錦、18枚目の相模川が7勝2敗でこれを追っていました。八方山は、鏡里、不動岩を寄り切り、10日目力道三と物凄い突っ張り合いから力道三が双差しになって寄ってくるのを剣ヶ峰で弓なりになって打棄り8勝2敗にこぎつけたが惜しくも千秋楽に清水川に寄り切られて8勝3敗ととなりました。
優勝は10勝1敗の羽黒山、亦この場所からスタートした3賞は、殊勲賞が9勝2敗の出羽錦、敢闘賞が7勝4敗の輝昇、技能賞が8勝3敗の増位山であったが、八方山の8勝3敗もこれら3賞に比し勝るとも劣らない立派な内容の星でありました。
昭和25年1月場所は9勝6敗の星を残し、続く3場所はいづれも8勝7敗と勝ち越して26年5月には西前頭1枚目(筆頭)に進みました。
昭和26年6月30日、元横綱前田山の高砂親方、幕内大ノ海(のちの花籠)、十両の藤田山の4人で横浜港を出帆、約半年にわたってハワイ、アメリカ本土の主要都市を巡業、各地でパンツの上からまわしを締めて土俵入りや取組などを実演して国技大相撲を紹介し、海外普及につとめました。ワシントンではバークレイ副大統領と会見するなど成功裡に帰国しました。
しかし九州場所には帰国できず全休しました。昭和27年9月、十両に落ち、昭和28年1月限りで引退、年寄不知火を襲名しました。
幕内の在位は12年、26場所で、最高位は前頭1枚目(筆頭)。
全盛時代、身長1㍍80、体重131㌔。
幕下時代に痛めた膝が十分に曲がらず、下半身の脆さから堂々たる体力を十分に生かしきれませんでした。それでも左四つに相手を引っ張り込むと、大きな腹を使っての寄りにものをいわせました。茫洋として大まかな人柄で親しまれました。
年寄不知火披露相撲並びに断髪式は昭和28年6月2日、正午から蔵前国技館で行われました。伝統の行事のあと断髪式に移り、八方山が土俵に上がると観衆は拍手をもって迎えました。後援会長黒川武雄氏、顧問の大麻唯男氏、幹事大久保武雄氏ら同郷の名士や、力士代表横綱東富士、出羽一門代表大関栃錦らが次々に鋏を入れ、最後に出羽海親方が髷を落としました。
そのとき館内に万雷の拍手が起こったことは、いうまでもありません。
年寄になってから木戸主任、監事、検査役(今の審判委員)などをつとめ、昭和45年3月から参与であったが、昭和52年3月4日没、59歳。
史 跡
墓は千葉県市川市大野町4-2481の市川霊園にあり、碑面には次のとおり刻されています。
(正)、<紋>安武家 (紋は“違い鷹の羽”)
右側に墓誌がある。
昭和五十二年三月四日歿
八方院釈浄量居士 俗名不知火事安武計行年五十九才
また、生地菊池郡泗水町南田島字佐野にもあり、碑面には次のとおり刻されています。
(正)八方院釋浄量居士
(裏)昭和五十二年三月四日往生
俗名安武 計五十九才
2008年03月11日
【稲ノ森 勉】

稲ノ森 勉
土 俵 歴
明治32年5月17日、飽託郡白坪村(現熊本市蓮台寺町)に生れました。本名は古閑勉。
20歳のとき入間川部屋に入門し、のち出羽海部屋の移り、大正8年1月初土俵を踏みました。
大正9年5月場所には西序ノ口17枚目で4勝1預かりの好成績で序ノ口優勝、10年1月は西序2段11枚目、同年5月場所は西序ノ口17枚目で4勝1預かりの好成績をあげました。
大正11年5月は西幕下39枚目、翌12年5月には東10両13枚目に進みました。出世が早く、序ノ口から7場所目の十両昇進でありました。十両に昇進したので細川侯爵家から恒例により二つ引の化粧まわしが贈られました。
大正15年1月場所は西十両1枚目で5勝3敗の成績をおさめ、十両に6場所いて翌5月に初土俵から7年目に東前頭14枚目に入幕しました。稲ノ森 勉27歳の時でした。
入幕した大正15年5月場所は、病気のため振わず11日間全敗におわったが、1日も休場せずに奮闘したことは肥後魂の発露で、観客は勿論、好角家からも称えられました。
翌場所は十両に落ち、それから5場所つとめてのち廃業しました。
幕内の在位は1場所で、最高位は前頭14枚目。
身長1㍍73、体重94㌔。右四つ寄切りを得意としました。
相撲界を去り、郷里熊本に帰ってからは、養鶏や百姓などして家業にいそしむかたわら、青少年に相撲を教えたり、地方相撲の師範役として郷党に重宝がられました。
昭和38年7月20日没、64歳。熊本市の蓮台寺に納骨されています。
2008年03月11日
玉 桜 八 郎

玉桜八郎
土 俵 歴
大正9年1月19日、熊本市東坪井町に生れました。
本名は安部八郎。
昭和11年1月、17歳のとき横綱玉錦が現役のままで、いわゆる二枚鑑札で経営していた二所ノ関部屋に入門し、初土俵を踏んだ。昭和13年5月には幕下に進み、昭和18年1月には東十両11枚目に進みました。
十両を2場所つとめたあと、2年間應召し、復員して、昭和20年11月から再出発し、十両を4場所つとめて昭和23年5月東前頭20枚目に入幕しました。兵役にとられたのが前途にひびき、ときに28歳でありました。
入幕した5月場所は4勝7敗の成績に終り、翌場所は十両に落ち、その後廃業しました。
幕内の在位は、1場所で、最高位は前頭20枚目。
身長1㍍74、体重86㌔。
小兵で非力だったが、師匠玉錦の薫陶を受けてその取り口は潑溂としており、闘志満々のキップのよい力士で、前さばきがうまく、俊敏型で、左四つから食い下がっての寄りを得意としました。
勝味がやや遅かったのが難点とされました。二所一問には珍しいわざ師で、のちに大関となった琴ヶ浜の兄弟でありました。
琴ヶ浜は相手のまわしを切る術と内掛けのうまさは抜群であったが、それを伝授したのは玉桜であり、土俵を去るとき締込みを琴ヶ浜に贈ったといいます。
2008年03月11日
【鞍ヶ嶽 楯右衛門】

鞍ヶ嶽楯右衛門
土 俵 歴
明治31年11月6日、熊本市新町に生れる。本名は上田善三郎氏。
大正2年16歳のとき横綱太刀山の門に入り、花岡山と名乗り、友綱部屋でけいこを積んで鞍ヶ嶽と改め、3年1月初土俵を踏んだ。6年5月場所は3段目で5戦全勝で優勝し、7年1月には東幕下46枚目に上がり、幕下に3場所いて大正8年5月には東十両13枚目に進んだ。
大正9年1月場所は11枚目で5勝5休、5月場所には西3枚目に進み、5勝2敗3休と好成績が続き、大正10年1月東前頭14枚目に入幕した。ときに24歳でした。
この間、大正8年5月場所に師匠の太刀山(年寄東関)は、検査役の選挙に落ちたのを遺憾に思ってあっさり相撲界から引退した。そのとき太刀山は一門の弟子を部屋ぐるみ3代高砂(大関朝潮)に譲ったが、鞍ヶ嶽が大器であることを強調して特別の指導を頼んだ程で、太刀山が最も嘱望していた秘蔵弟子であった。所属部屋は東関部屋から高砂部屋となった。
入幕直前の人気は大変なもので、常陸山(19人目の横綱)の再現を思わせるようで、ことに熊本興行の際は、関取の前途を祝するひいき筋の幟が熊本駅から新市街まで、ずらり立ち並んだくらいで行列ができ、そのすばらしい人気の程を物語っていました。
あとでこの幟を長持に詰めたところ、3ばいもあったというから相撲そのものに対する人気もさることながら出花の彼に対する郷土の声援の凄さをものがたっています。
入幕して2場所目の10年5月場所の5日目に、西5枚目で東横綱大錦と対戦したが、この取組は大物言いとなった。右4つから大錦が寄ると鞍ヶ嶽は土俵際で必死にこらえて左に打棄り同体に落ちた。行司17代木村庄之助は軍配を鞍ヶ嶽に上げた。すると検査役の入間川(小結両国梶ノ助)から打棄る前に鞍ヶ嶽に踏み切りがあったと物言いがつき、もめにもめた末、逆に大錦の勝となり、庄之助は軍配を上げ直した。
庄之助は、差し違いという立行司として、この上ない不名誉な失態をしたことで、責任をとり、辞表の提出を協会に申し出た。
協会役員や大錦、鞍ヶ嶽らは懸命に引き止めたが庄之助の決意は堅く、協会は庄之助の高潔な精神を尊重し辞表を受理しました。 この勝負で名をあげたのは庄之助と鞍ヶ嶽であった。
大正11年5月場所は3勝6敗1引き分けに終わったが、7日目には西大関(のち31人目の横綱常ノ花を叩き込みで破り、また大正14年11月の明治神宮の第1回力士選士権では、既に引退はしていたが、まだまだ実力のあった元横綱栃木山を寄り切りで破ったこともあった。(栃木山は敗者復活戦で立ち直り優勝を遂げた。)
大正13年5月には、四股名を東関と改めた。年寄名を四股名として土俵に上がった最後の力士でした。
その後、昭和5年10月場所後に引退するまで13場所をつとめ、大正15年1月場所は7勝4敗、同年5月場所と昭和2年10月場所は8勝3敗と好成績をあげましたが、十両に7場所もいて、1進1退であった。
幕内の在位は21場所で、最高位は前頭1枚目(筆頭)。
全盛時代、身長1㍍73、体重120㌔で、左を差しての相撲が得意で、なかなかの相撲巧者であり、機をみて咄嗟に吊り上げたり、櫓投げで振り回したりなど取り口は実に堂々としていた。
そして引退後は、年寄東関を襲名して相撲の興隆に尽くし、昭和9年5月限り廃業した。
山田珠一熊本市長が学童の相撲奨励のため、熊本市手取本町に設けた修練道場「四柱会」の師範に迎えられて相撲の指導につとめていた。
昭和14年10月21日没、42歳。
史 跡
墓は熊本市横手1009安国禅寺にあり、碑面には次のとおり刻されている。
(正) 上田家累世之墓
(左) 昭和十四年十月二十一日歿萬太朗長男善三郎享年四十二歳







