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2008年03月24日

【大関 栃光正之】

【大関 栃光正之】



【写真は、殊勲賞の朝錦関(右)と、敢闘賞の栃光関(左)】



【大関 栃光】 



土 俵 歴


昭和8年8月29日、

天草郡深海村下平(現牛深市深海町下平)に生れました。

本名は中村有雄。

昭和27年、18歳のとき、角界入りをすすめる人から

時津風、出羽海、春日野の3つの部屋のうち、自分がいいと思う部屋に入門すればいい、と言われたので、
天草出身でかつて幕下の上位までいった、元立浪部屋の力士荒浪の所に、
挨拶に行ったところ、

「立浪部屋に入れたいが、3つの部屋のうちどこかというなら春日野部屋だ。自分はあの部屋の栃錦とは一番の友達で、あの男は人間的にもいいし、いまは関脇だが将来は必ず横綱になる男だ。あの部屋に入ったらどうだ」

と言われたのが、動機となって同年5月1日、春日野部屋に入門しました。

その翌日、師匠の春日野(27人目の横綱栃木山)は「栃光」という四股名をつけました。

以来引退するまで栃光でとおしました。なお、親方夫人は字画をみて「栃光」の下に「正之」と加名。

 当時、春日野部屋には、関脇栃錦や鳴門海がおり、本家の出羽海部屋には横綱千代の山をトップに出羽錦らがいて栃光はけいこ台に恵まれ、早朝から黙々とけいこに励みました

その熱心さと、いくらやってもへこたれないところから「べコ」という綽(あだ)名がつけられました。

ベコとは東北の言葉で牛のことです。独特のハズ押しで「大正の名横綱」といはれた春日野は栃光を自分の後継者にしようと考えて、両脇に藁(わら)を挟ませ、それを落とさないように押させて押し相撲に専念させ、厳しく指導しました。

大関栃光は入門する前、炭坑に使う坑木を背中いっぱい山から担いで登ったり降りったりしていた仕事に比べると相撲のけいこはそんなにきついとは思わなかったと述懐していました。

昭和27年5月初土俵を踏み、番付外で前相撲をとり、3戦3勝して一番出世をし、
ついで新序の口西1枚目で番付にのり2勝1敗と勝ち越しました。

翌9月場所は序二段に進み、7勝1敗の好成績、昭和28年1月場所は東3段目42枚目で7勝1敗で優勝同点、5月場所も同様の成績をあげ、9月には西幕下38枚目に進み、29年3月場所は8戦全勝で幕下優勝を遂げました。

初土俵から幕下まで3年足らず、8場所の成績は負け越し知らずで、勝率は79%、後年の大横綱大鵬のそれは14場所で勝率は78.9%で栃光には及びませんでした。「 栴檀 は双葉より芳し」の喩えどりでありました。 
 
昭和29年5月、20歳の若さで東十両22枚目に進みました。
初土俵から短期間であったため髷がのびきらず関取のシンボルである大銀杏が結えず、床山を泣かせたという。

十両に入って、10勝5敗、11勝4敗、9勝6敗と順風満帆の快進撃を続け、昭和30年3月場所(大阪)は西3枚目で15戦全勝優勝の金字塔を樹立しました。

同場所は初日から破竹の勢で、白星街道を驀進(ばくしん)し、15人を悉く薙ぎ倒し勇名を全国に轟かせました。

十両では全勝優勝は至難の技で、それまでの記録も、昭和4年1月場所の武蔵山、昭和9年5月場所の出羽湊、昭和10年1月場所の(いずれも出羽海部屋)の11戦全勝があったが、

15日制になってからは栃光によってはじめて樹立され、大相撲史上にのこる驚異的な記録であり、その後も昭和36年11月場所の豊山(現時津風)と昭和38年11月の北の富士(現九重)の2人しか樹立していません。

昭和30年5月には、11枚上がって東前頭13枚目に入幕しました。ときに21歳、初土俵以来3年、13場所目のスピード入幕でありました。大麻唯男氏の肝煎りで永田大映社長から贈られた化粧まわしをつけて土俵入りし、また兄弟子栃錦の横綱土俵入りには露払いをつとめました。太刀持ちは鳴門海でした。

新入幕の場所は、10勝5敗の好成績、昭和31年1月場所は西2枚目に進んだが惜しくも一点の負け越しでした。しかし4日目には初挑戦の横綱吉葉山を倒して初の金星を獲得しました。

その後そばらく不振が続いたが、昭和32年1月場所は西6枚目で、6日目から白星が続き、14日目にはライバルの若羽黒と対戦、「はりま投げ」という珍しい手で破って10連勝し、12勝3敗で準優勝、初の雷電賞(注)を獲得しました。

(注) 雷電のごとき強豪いでよしと願望をかけて、読売新聞社出版局が昭和30年春場所(3月)から制定したもので、受賞資格は関脇以下の幕内最優秀者、昭和40年の九州場所(11月)まで続きました。重量15㌔の軍配型大楯。

第1回の大関への挑戦

昭和32年3月場所は西小結に昇進し、初の3役入りを果しました。

しかし惜しくも負がこみ、5月には西1枚目(筆頭)に落ちました。
同場所は再び吉葉山を、9月場所には鏡里を倒して金星が2場所続きました。昭和33年11月から昭和34年9月まで6場所連続して勝ち越しました。

この間、昭和34年5月場所は西関脇で、新横綱朝潮に土をつけるなどして10勝5敗、初の敢闘賞を獲得しました。次の7月場所も10勝5敗で、関脇3場所目の9月場所を迎えました。朝潮の新横綱昇進によって同年5月からは大関は琴ヶ浜一人で、大関昇進の千載一遇の絶好のチャンスでした。

ところが栃光は昭和32年に小結になってから蕁麻疹(じんましん)になやまされ、この大事な9月場所にもまたそれが出てきて8勝7敗とやっと勝ち越しました。翌11月場所は5勝10敗と大きく負け越し、4場所確保した関脇の座を明け渡し、35年1月には平幕に落ちました。

昭和34年の暮、師匠春日野が亡くなり、栃錦が現役のままであとを継いで春日野親方となりました。現役で年寄を兼ねた2枚鑑札でありました。新春日野の栃錦は、栃光に、土俵のこと、大関のことなどはいっさい考えず病気を徹底的に治すことが先決といいました。

栃光は病院で精密検査も受けなおし、注射はもとより、漢方薬をはじめ効能のある薬は片っ端から取り寄せてあらゆる治療をやり、また、祈祷師(きとうし)に頼んで、゛呪い(まじな)゛をかけてもらったことさえありました。さらに食事には何よりも細かい神経を使いました。

栃錦夫人は栃光用の料理をみずから作ってくれたり、特製野菜ジュースを拵(こしらえ)るなど気を使いました。それでもひどい蕁麻疹は容易に治りませんでした。

第2回の大関への挑戦
昭和35年は、4場所も負け越しが続きました。昭和36年に入るや、3月場所は朝潮を倒して4個目の金星と初の殊勲賞、7月場所は10勝5敗で2回目の敢闘賞、9月場所は西関脇に返り咲き、5場所連続勝ち越して2回目の大関への挑戦が到来しました。

しかし関脇2場所目の11月場所は3勝12敗と大きく負け越し、大関への足がかりを逸してしまいました。
このころ、柏戸、大鵬は大関、横綱に、若羽黒、北葉山は大関に昇進し、栃光を追い越していきました。

栃光は大抵なら引退か廃業であるが、真面目一徹気質は、気を腐らせることも、酒に溺れることもなく、以前にも増してけいこにけいこを積んでいきました。このころ、熊本場所に先乗りとしてやってきた春日野親方は「栃光はいま迷いのときで、一番苦しいときだが、これを克服できると思っている。迷いから抜け切ったときこそひと花咲かせてくれる。かれは私が請合う」と自信に満ちて語りました。

第3回の大関への挑戦
昭和37年に入るや、1月場所から好調なすべり出しで11勝4敗、3月場所は西小結で、若乃花、柏戸の両横綱をも倒して10勝5敗、2回目の殊勲賞を獲得し、春日野親方がいったようになってきたのです。

そして次の5月場所は西張出関脇で、初日以来5連勝の好調スタート、柏戸、大鵬の両横綱、大関北葉山らを倒して入幕以来最高の堂々たる勝星をあげました。

3日目横綱柏戸と対戦。柏戸は左喉(のど)輪(わ)で右から攻めたてたが、栃光はよく堪(こら)えて双差し、柏戸は右を巻き替えにいったが栃光はうまくおっつけ、また双差し、柏戸が両小手から抱えて寄り立てるのを栃光は腰を落して懸命に残し、柏戸が右上手をとりにきた瞬間をさっと右下手投げをうつと見事にきまり、柏戸の巨体は宙に舞って落ちました。

12日目横綱大鵬と対戦。栃光は気合をこめ、体を丸めて思いきりぶちまかし、次に突きまくると、大鵬は腰の備えが崩れてみるみる後退し、剣ヶ峰につまったが、柔かい体にものをいわせて堪え、土俵際で右から引っ張り込み、左をのぞかせて掬い投げにいくと栃光は土俵際で倒れそうになり、大いに危なかったが、よく堪え、右足を踏み込むと大鵬の腰が砕け、そこを栃光はつけいって右からおっつけ左ハズで押し倒しました。

この場所は出羽一門の佐田の山(同場所大関に昇進)、栃ノ海、栃光(ともに関脇)のトリオの活躍はすばらしく、栃ノ海は14勝1敗で優勝、敢闘賞、技能賞及び雷電賞、佐田の山、栃光はともに13勝2敗で準優勝、栃光は3回目の殊勲賞。優勝、3賞及び雷電賞を春日野部屋で独占しました。

昭和37年に入って栃光の3場所の通算成績は34章11敗、勝率は7割5分、栃ノ海のそれは33勝12敗、勝率は7割1分でした。

昭和37年5月23日朝、日本相撲協会の使者白玉理事と甲山(かぶとやま)検査役が春日野部屋に到着、紋服の正装で迎えた栃ノ海、栃光に対し、「本日の番付編成会議で満場一致大関に推薦されました」と伝えました。両者揃っての大関昇進でありました。栃ノ海、栃光は頭を下げて「有難くお受けします」と答えました。

そのあとで栃光は

「大関として恥かしくない土俵をつとめたい。これからは栃ノ海関の胸を借りて頑張ります」

と弟弟子である栃ノ海を褒め、その胸を借りてとまでいいました。

大関栃光の誕生、この日こそ生涯最良の日であり、ときに28歳でありました。

蕁麻疹になやまされながら、苦難に耐えて一歩一歩と克服していった精進努力、それは小野道風(おののとうふう)と柳に飛びつく蛙の図で、大関という柳に飛んでは落ち、飛んでは落ちたが、ついに七転八起の末大関の栄冠を手にしたのでした。

5月場所の栃光の相撲と大関昇進について相撲評論家の彦山光三氏は「従来、出だしの一発はいいけれども、あとの一発は足が出なかった。それがこの場所は足が出すぎるくらいにでている。どの相撲に勝ったのもみんな出足のせいで、これは意地だと思う」と。

また、昭和初期の関脇天竜三郎氏は

「栃光に花が咲いたということは、相撲界ばかりでなく、他の一般社会にもいい刺激になると思う。栃光の躍進は全部のいい指針になると思う」

と褒め称えました。


熊本県からは不知火光右衛門以来百年ぶりの大関の誕生で、県下の喜びはひとしお、とりわけ郷里牛深市は沸きたち、大関昇進を祝う約3000人の旗行列が盛大に行われ、祝賀一色で栃光ブームは最高潮に達しました。

新大関の7月場所は西張出大関で好調のすべり出し、初日から4連勝し前場所に続き柏戸、北葉山を破るなどして11勝4敗、次の9月場所は東大関となり5大関のトップに立ちました。同場所は11勝4敗、次の場所は10勝5敗と2桁の勝星をあげていきました。

同年12月には熊本に大関としてお国入りし、熊本市の水前寺体育館で開催の熊本場所に臨みました。体育館の土俵上で熊本県栃光後援会長の伊豆富人氏から大関昇進のお祝いに海老原画伯が精魂をこめて描いた「銀色の地に煙はく阿蘇の山」の絵の入った豪華な化粧まわしが贈られました。11日には郷里天草に渡り、本渡市の中心街をオープンカーでパレード、市内は栃光一色で、『島の英雄』に限りない声援がおくられました。

大関の栄位にのぼった昭和37年は、年間多勝は90戦して66勝をあげ、大鵬、佐田の山についで柏戸とともに第3位でした。
大関5場所目の昭和38年3月場所は、8日目に給金をなおして勝ち越し1号となり、大鵬と富士錦に敗れたが、大鵬に次ぐ13勝2敗の準優勝でした。

昭和38年7月場所は前半戦で早くも3敗をきっしたが、後半には完全に立ち直り大鵬を破りました。7場所連続優勝を狙っていた大鵬は栃光に敗れて3敗となり、優勝圏内から脱落しました。

14日目には破竹の勢いの北葉山を破って一門の僚友佐田の山の援護射撃をつとめ、優勝を千秋楽に持ち込ませました。優勝決定戦で北葉山が勝って優勝、第2位は佐田の山、第3位は12勝3敗の大鵬と栃光でした。

昭和39年3月場所は、5日目清国との一戦で左肘を痛め、土俵は冴えず初土俵から60場所、851回の連続出場の記録もストップし10日目から休場しました。しかし、次の5月場所は11勝4敗、7月場所は12勝3敗で第3位でありました。

昭和40年に入るや、1月場所は11勝4敗で、この場所から部屋別取組が実施され、7日目に一門の出羽海部屋の佐田の山と対戦、寄り切りで破りました。
 
しかし、その後は不振で、9月、11月と2場所続けて負け越し、昭和41年1月場所は大関カド番に立って場所に臨みました。

当時は大関は3場所連続負け越さなければ落ちなかったので、栃光はその3場所目をこの1月場所に賭けました。

しかし、場所前から体力も弱っていて、稽古しても思うようにいかず、9日目に7敗となり崖っぷちに立たされました。

10日目には、北葉山、11日目には、新鋭北の富士を降してピンチを切り抜け、そして12日目に優勝争いのトップに立つ柏戸と対戦しました。

栃光は柏戸の胸板めがけてぶちかまし、柏戸は踏み込んで前褌(まえみつ)を狙った。
栃光は左を差し勝つと右も入れて双差しとなり西に寄ったが、柏戸は左に回り右巻き替えをねらった。強引に押され栃光は、右ひざから落ちました。

これで8敗となり3場所連続負け越しとなり22場所務めてきた大関の座を明け渡します。

大関陥落の一番であったにもかかわらず、『よくやった!』と大歓声と拍手を浴びたた大関は栃光だけだったでしょう。

負け越してしまい、大関陥落が決まった後、14日目には大関豊山を万全の構えで寄り倒し、負け越し決定の大関が、これだけの大一番を取るのは非常に稀で、引退目前の栃光の執念を存分に発揮した勝負でした。

千秋楽には、富士錦に敗れ、5勝10敗となり、最後の土俵を白星で飾ることは出来なかった。

燃え尽き、限界に達っした栃光は、全国のファンから惜しまれながらも引退を発表しました。

そして昭和41年2月2日 栃光は春日野部屋で引退を発表したのでした。

大関栃光ときに、32歳の時でした。

幕内の在位は11年余り、60場所、勝率は5割4分7厘、殊勲賞3回、敢闘賞2回、大関在位は3年余り、

横綱大鵬を多く倒した力士の順位は第3位でした。


手を着いて立つ、待ったをしない、終始一貫した、綺麗な立会いは、大横綱双葉山に次ぐといっても過言ではないでしょう。

年寄千賀ノ浦襲名披露記念、大相撲並びに断髪式は、昭和41年6月4日正午から蔵前国技館で執り行われました。

断髪式では、村木武夫栃光後援会長をはじめ、山口喜久一郎衆議院議長、園田直衆議院副議長、松田文部大臣、力士会長横綱大鵬ら70名が次々に挟みを入れ、最後に師匠の春日野親方が髷を落した。

年寄千賀ノ浦は、やがて相撲協会の審判員を務め、一方、出羽一門すなわち、出羽海、春日野。三保ヶ関の三部屋の後進の指導にあたっていた所、昭和52年3月28日、42歳の若さで没しました。

大変惜しまれながら、多くの角界関係者に見送られた式典でした。



史跡

東京都墨田区千歳2-4-7  東日山西光寺にあります。

生前に、大関が子供を連れてよく散歩に来ていたその縁で、ここが墓所に選ばれました。


顕彰碑


荒滝五太夫の所で述べたように、荒滝と栃光の縁の碑は、芦北郡津奈木町赤崎に建立されています。



銅像

本渡市の本渡諏訪神社境内に、昭和55年12月7日、大関栃光顕彰事業期成会によって建立されました。

また、青年時代に力試しをした故郷牛深市深海町の下平神社の力石の1つが銅像建立を祝って寄贈され、副碑として建立されています。

序幕式には、当時開催中の本渡場所に出場中の横綱若乃花、北の湖、輪島以下34人の幕内力士が参列、かつての僚友佐田の山の出羽海は、

爽快たる君が雄姿銅像となり、郷里天草のこの聖地に、建立すること、まさに力士の本懐であり、心からなる祝意を表すものであります。


と切々たる追悼の辞を述べました。



【大関 栃光正之】




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Posted by セレスピード熊本 at 18:05│Comments(0)【熊本出身の力士】
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