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2008年03月14日

【不動岩三男】

【不動岩三男】



 
 不 動 岩  三 男 




土 俵 歴


大正13年8月6日、熊本市藪ノ内町に生れました。

本名は野田三男

父親の勤務の関係で、旧満州(現中国東北部)の新京市に住み、新京商業学校に学び、長身を利して野球の1塁手をつとめていたのを引退直後の元大関鏡岩(年寄粂川)に見い出されて粂川部屋に入門しました。

昭和15年1月場所前の新弟子検査のとき、1㍍98、100㌔もあったといいます。昭和15年1月初土俵を踏み、昭和16年5月東序2段68枚目のとき本名の野田から不動岩という雄大な四股名に改めました。

昭和16年11月、立浪部屋の横綱双葉山は粂川部屋に双葉山道場の看板を掲げて独立しました。これは親友の粂川が双葉山の人格、趣旨に共鳴し「部屋も弟子も譲る」という好意を示したからでした。

道場としたのは、双葉山が現役だったためです。そして、昭和18年秋、双葉山は福岡県の大宰府に双葉山道場をつくり「双葉山相撲練成道場」という看板を掲げ、粂川部屋はこの道場に合併しました。そのため不動岩の所属も双葉山道場に移りました。

厳しいうちにも無限のあたたかさが籠もる御大双葉山のよき指導によって道場の若者達は道場に所属していることに誇りをもって相撲道に精進し、心身ともすくすくと成長し、そのなかにあって不動岩も毎場所好成績をあげて早くも幕下に進みました。 

昭和19年1月場所は、西幕下16枚目で8戦全勝、幕下優勝を飾りました。将来は横綱の器として大麻唯男氏が中心となって十両入りする前から大々的に後援会をつくって励ましました。

翌5月には一躍27枚上がって西十両4枚目に進みました。

この5月場所には、新十両が幕内の十勝岩(のち年寄湊川)と顔が合うという珍しい取組が行われ、不動岩は十勝岩に敗れたが、それでも6勝4敗の成績をあげ、十両は1場所で同年11月には東前頭18枚目に入幕しました。

入幕して3場所目の昭和20年11月には西小結となりました。ときに21歳2ヶ月で、新小結では後年の大横綱北の湖の19歳7ヶ月、大鵬の20歳には及ばないが、当時としては大変若い役力士でありました。

同場所は5日目横綱照国と対戦、敗れたが水入りの大熱戦を演じました。翌6日目には横綱安藝ノ海と対戦し、安藝ノ海は左差しにいったが果せず、仕方なく左上手を取って上手投げ左外掛けと攻めました。これを不動岩はよく残し、安藝ノ海が右で前褌を引くと不動岩は左でかかえた。このあと安藝ノ海が左を巻き替えて寄り、不動岩の上手投げを左外掛けで防いでさらに寄って出ました。しかし、この寄りは強引すぎたため腰が伸び、不動岩の大きな右上手投げに安藝ノ海は屈してそまいました。
 
昭和20年11月、双葉山が引退して、年寄時津風を襲名してからは時津風部屋の所属となりました。昭和21年11月には関脇に進み、東富士、千代の山らと並んで次代を担うものと期待され、 『 巨人大関出現か! 』 ともいわれました。

しかし、その後は10勝5敗の好成績の場所が1場所、7勝4敗が1場所、9勝6敗が2場所みられたものの全般的に不振で、昭和27年9月には十両にいて昭和29年1月場所限りで引退しました。

不振の原因は、長身力士にありがちの下半身の脆さと、勝ち身の遅さにあり、さらに内臓疾患もあったといわれています

幕内の在位は約8年、19場所で最高位は関脇

全盛時代身長2㍍14、体重125.6㌔

昭和相撲界第一の巨人で、『 昭和の大空武左衛門 』といわれ、戦後唯一の「七尺男」で、戦中、戦後の土俵に一異彩を放ちました。

蔵前国技館の吊り屋根の房が、はじめ七尺の高さにセットされたが、不動岩の髷の先が觸れるのでさらに高くしたとのことであります

左4つ、身長を使っての吊り出し、また上手投げに威力がありました。
 
引退後は、師匠ゆからの名年寄粂川を襲名して勝負検査役を長くつとめました。年寄はのちに武守秀五郎(式秀)にかわりました。昭和37年1月廃業して熊本に帰り、熊本開発会社の監査役などをしていたが、

昭和39年4月15日39歳の若さで没しました。 
 
明朗で頭がよく、超巨人だけにジャイアンツファン、一般紙一部とスポーツ紙4部程を毎日3時間かけて隅まで読みあさる程のスポーツ通だったそうです。


史     跡

熊本市南坪井町1-21白毫山専光寺納骨堂
  不動院釋大心居士
    野田三男  小川敏子之弟
    昭和三十九年四月十五日寂  (家の過去帳)


逸     話
けいこあがりに日本酒を二、三杯あおるのが楽しみ。巨人にふさわしくコップ一杯は必ず一息で飲みほしました。6升の酒と一貫目の肉を2時間ほどで平らげ、残った2升をおみやげに持ち帰って評判になったことがありました。


和歌山県白浜巡業のとき、雨で巡業が順延になったので、つれづれなるままに関取衆が集って、「不動岩関は1升ビンの酒を一息で飲めるかどうか」という賭(かけ)けをやりました。飲める方に賭る力士は一人もいない。すると不動岩が「よし飲めるほうに賭けよう」といって1升の酒を冷のままビンから口飲みでトクトク…と息もつかせず飲みほしました。




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Posted by セレスピード熊本 at 17:38│Comments(6)【熊本出身の力士】
この記事へのコメント
お名前だけは聞いたことがありますね。。
仕事が仕事だけに、名前を知ってるだけで入居者さんがちょっと喜んでくれるとこがまた面白いわけですが・・

背の高さゆえの欠点・・まるで大関では琴欧洲関のイメージが出てしまいますね・・下半身のもろさというのと、長身が故の投げに対して先に頭が落ちるみたいな・・
こういうタイプの力士にありがちな足が細いみたいな・・
当時でこの身長・・恐るべしですね・・
勉強になりました!!
Posted by tweety at 2008年03月14日 20:07
トモイ テルヤさんこんばんは!こめんとありがとうございました。これからも相撲史実の記事を沢山書いてくださいね。
Posted by shadow at 2008年03月14日 20:32
ほんとに巨人大関ですね。
逸話もなるほど~と思いました。
Posted by ごはんごはん at 2008年03月14日 21:28
tweety様

そうですね、背が高いというのは、関取にとって一長一短ですね。

当時の平均身長からすれば、まさにジャイアント・不動です。

現代に存在してたら、すごい人気でしたでしょうね。

トモイ
Posted by 行司行司 at 2008年03月14日 21:47
shadow様

老体に鞭うって頑張ります!

じつは・・・・・今からが本番です!

相撲界の史実研究家の目を覚ますような、記事を公開予定です。

少々おまちください!

トモイ
Posted by 行司行司 at 2008年03月14日 21:49
ごはん様

ブログのカレーが、食べたいのですが・・・・・

毎日販売しているのですか?

http://kichintogohan.otemo-yan.net/e72191.html

馬筋カレー!

これは、食べとかないと!!
Posted by 行司行司 at 2008年03月14日 21:54
 
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