2008年02月29日
高根山政右衛門 黒雲竜五郎


高根山政右衛門
土 俵 歴
玉名郡高瀬町(現玉名市高瀬)の出身。
初め京都に出て頭取若駒宗吉のところに入門します。
その後、江戸へ下って浦風林右衛門の浦風部屋に入門し、郷土の先輩代八代横綱不知火諾右衛門に稽古をつけてもらいました。
天保8年(1837)1月
獷(とな)角(がえし)重蔵と名乗って幕下の張出しに付け出され、同年九月十七(とな)返(がえし)と、同年十一年一月真鶴(まなづる)政吉と改め、同十二年十一月場所は八戦全勝の好成績をあげました。
同十三年二月場所は西幕下二枚目に進み高根山と改め、五勝二敗一預かり二休の成績。
同年十月前頭西六枚目に入幕し、十四年十月には雲生(くもう)嶽(だけ)と名を改めて、実に改名の多い力士でした。
幕内の後半には休場が多く不振だったそうです。そして嘉永三年(1850)十一月引退しました。
幕内の在位は約十年、十四場所で最高位は前頭二枚目という成績でした。
前述のとおり横綱不知火諾右衛門の土俵入りには太刀持ちをつとめていました。
黒雲竜五郎
土 俵 歴
玉名郡高瀬町(現玉名市高瀬)の出身。本名は水上と言ったそうです。
初め大阪に出て頭取湊由良右衛門の弟子となり、江戸へ下って浦風林右衛門に入り、梅ヶ枝八十郎と名乗って天保八年(1837)一月幕下西十八枚目に付け出されました。
同年十一月黒雲竜五郎と改め、出雲国松平藩のお抱え力士となり、日野の姓を賜ったといいます。
同十三年二月場所は幕下西三枚目に進み四勝二敗四休の成績。
翌十月場所は同位置で六勝二敗二休の好成績をあげ、高根山に一場所おくれて同十四年一月前頭西七枚目に入幕しました。
弘化四年(1847)十一月引退。
幕内の在位は約五年、九場所で最高位は前頭三枚目という成績でした。
地味な存在で、前述のとおり横綱不知火諾右衛門の土俵入りには露払いをつとめました。
明治四年十月六日没。高瀬町の妙法寺に葬られ法号を「梅枝院黒雲濃錦日里居士」と言います。
史 跡
墓は玉名市の妙法寺にあり、碑面には次のとおり刻されています。
濃錦里八十郎之墓
梅ヶ枝、黒雲のほかに不知火諾右衛門の前名です。
逸 話
14歳のとき、長洲の宮相撲に加わったが相手になる者はいなかったといいます。
至って美男の力士であったので凄い人気を集め、梅ヶ枝の簪(かんざし)をもたないものは恥ずかしくて人中にはでられないとまでいわれたという。
2008年02月28日
第8代横綱【不知火諾右衛門】
第8代横綱「不知火型土俵入り」

【 不知火諾右衛門 】 (しらぬい だくえもん)
江戸時代、角界に熊本出身の名横綱がいました。「不知火型土俵入り」の創始者、第8代横綱”不知火諾右衛門”です。
享和元年(1801) 宇土市轟村栗崎(現宇土市栗崎)に生まれる。
本名は近久信次。父親は嘉平は農業を営み、郡の役人も兼任していました。
文化十三年(1816)信次が十六歳の時父が他界されたのを受け家を継ぎ郡の役人になります。
機敏で大力で地元に徴用されました。
やがて池田氏の娘を嫁に迎え二人の男子を授かります。
二十三歳の時、浦山の天神社の祭礼で宮相撲に参加し相手を投げ飛ばしてしまいます。
このことが、原因で相手を死亡させてしまいました。
信次(諾衛門)は、残された家族と顔を合わすことが苦痛でいたたまれなくなり故郷を去り大阪に出ました。
妻子を郷土に残しての相撲修行は恐らく他にはないでしょう。
大阪の名門湊部屋に入門して、湊由良右衛門の弟子となり、白川(熊本の川の名前)と名乗り、
初土俵を踏みました。当時の力士としては、知的で取り組みも鋭敏で才能を遺憾なく発揮していきました。
諾右衛門は体格も良く、並外れた腕力と稽古熱心な甲斐があってメキメキ頭角を表していきました。
大阪では、たちまち入幕を果たし戸立野と名を改めます。
持ち前のガッツで上り詰め大阪相撲の大関に昇進し黒雲竜五郎と改名しました。
前頭から一躍大関に昇進したのは、七代横綱の玉垣と、この不知火諾右衛門二人のみです。
その当時は、芝居は大阪、相撲は江戸と言われ、相撲の本場が江戸と言うこともあり、
又更に、文政十三年(1830)の十一代将軍 徳川家斎の上覧相撲の盛儀を聞いた
黒雲(諾衛門)は、師匠に了解を求め、天保元年江戸に出発します。
江戸では、神田の本郷金助町の浦風林右衛門を訪ね弟子となり入門後、
天保元年十一月場所に、西幕下二十八枚目に付け出され回向院の江戸相撲での初土俵を踏み、
同時に出雲国松平藩のお抱え力士となったのです。
この時、諾右衛門三十歳、この場所の成績は七勝一敗の好スタートでのデビュー戦です。
幕下十場所を通じ五十七勝十四敗という好成績でありながら七年も昇進しなかったのは、
当時の大阪上がりの力士の成績と昇進が合致しない大阪(ハンデ)であった当時の角界の通説の故だったようです。
江戸相撲八年目に入り天保八年(1837)一月、ようやく西前頭四枚目に入幕し、濃野里諾右衛門と改めました。
入幕したのが三十七歳で全盛期は過ぎていたものの、同年十月には、前頭三枚目に上がり、
手柄山、黒岩という大関・関脇を破り、翌九年二月には、前頭筆頭に昇進、
さらに翌三月場所では、西の大関の稲妻が休場したため関脇追手風、小結鷲ヶ浜を抜いて一躍
西の大関に二人抜きで昇進し、東の大関平石七太夫と相対しました。
小結・大関を経ずに大関になったのは、看板大関以外では異例で、このようなことから、
功績を認められ郷土細川藩のお抱え力士となりました。
この場所は、二勝四敗四休と不振におわり、翌十一月に稲妻が現れたので西の関脇にもどり、この時に、 不知火諾右衛門 と名を改めました。
所以は、領主細川公から、『領地の名物八朔(八月一日)の神火(不知火)は天下の奇観である。郡内に生を受けた汝は、
郷名を轟かすような不知火と名乗れ』 と名を賜ったということです。
翌十一年二月には、大関稲妻の引退を受け大関に復帰して八勝二休の幕内優勝を果たしたのです。
そしてこの年の十一月に、
吉田司家第二十一代善左衛門 追風から故実門人に差し加え、横綱を授与された。八人目の免許を受けたのでした。不知火諾右衛門四十歳の時でした。
当時の横綱は、地位ではなく称号でした。(降格有り)
諾右衛門の戦歴の中で特筆にあたる出来ごとは、天保十四年(1483)九月二十五日の江戸城吹上御殿での十二代将軍 徳川家慶の上覧相撲のでの華々しい光栄です。
その日は、朝から雨が降っていたとのですが、昼ごろからはパット晴れ上がって諾右衛門は上覧相撲土俵の上で、一代の面目を施しました。この歴史的瞬間は諾右衛門の長年の夢がかなった瞬間でした。
その土俵入りは、高根山・黒雲の二人を伴い免許を許された横綱を締め、堂々とした横綱の歩みで土俵に上がり、刻の将軍家慶に天下無双の豪快な土俵入りをお目にかけ、山も崩れんばかりの力技で見るものすべてを魅了したものでした。
いよいよ上覧相撲も最後の結びの一番、剣山対不知火の大関戦となり不知火が力で剣山に勝り寄り切って勝ったのです。
諾衛門は行司より弓を渡されるやいなや、土俵中央に踊りでて自ら堂々たる弓取り式を行いました。
そして時は流れ四十四歳になった天保十五年(1844)一月場所で、諾右衛門は引退を表明しました。
幕内在位八年 十四場所、勝率七割六分二厘、
最高位は、大関幕内最優秀(優勝)一回。
秀ノ山(第9代横綱)、剣山と並んで、天保の三傑と言われました。
身長1m76cm、体重135kgの当時としては堂々たる体格でした。
引退後は、師の恩を返すため大阪に戻り、湊諾右衛門を名乗り大阪相撲の頭取となり門下の養成に専念し、
優れた弟子を数多く生み出し江戸相撲に送り出しました。
中でも最も有名なのが第十一代横綱不知火光右衛門(熊本県大津下町出身)です。
不知火光右衛門は又後日、ここで、ご紹介致します。
そして嘉永七年(1854)七月二十四日没、五十四歳でした。
辞世の句は
こわれても かたちは失な露の玉
史跡
墓所は、生地の宇土市栗崎の山の中腹に、近くに住む子孫の佐久間家の墓地にあります。
熊本県宇土市の教育委員会では、昭和五十一年五月に、市の文化財に指定し保護に努められてます。
初代若乃花が大関時代に詣でたこともあります。
この様な歴史を後世につたえなければ、二度と熊本から横綱が誕生することはないでしょう・・・・・
みなさん、墓所にいってみてください!
よろしくおねがいします。


【 不知火諾右衛門 】 (しらぬい だくえもん)
江戸時代、角界に熊本出身の名横綱がいました。「不知火型土俵入り」の創始者、第8代横綱”不知火諾右衛門”です。
享和元年(1801) 宇土市轟村栗崎(現宇土市栗崎)に生まれる。
本名は近久信次。父親は嘉平は農業を営み、郡の役人も兼任していました。
文化十三年(1816)信次が十六歳の時父が他界されたのを受け家を継ぎ郡の役人になります。
機敏で大力で地元に徴用されました。
やがて池田氏の娘を嫁に迎え二人の男子を授かります。
二十三歳の時、浦山の天神社の祭礼で宮相撲に参加し相手を投げ飛ばしてしまいます。
このことが、原因で相手を死亡させてしまいました。
信次(諾衛門)は、残された家族と顔を合わすことが苦痛でいたたまれなくなり故郷を去り大阪に出ました。
妻子を郷土に残しての相撲修行は恐らく他にはないでしょう。
大阪の名門湊部屋に入門して、湊由良右衛門の弟子となり、白川(熊本の川の名前)と名乗り、
初土俵を踏みました。当時の力士としては、知的で取り組みも鋭敏で才能を遺憾なく発揮していきました。
諾右衛門は体格も良く、並外れた腕力と稽古熱心な甲斐があってメキメキ頭角を表していきました。
大阪では、たちまち入幕を果たし戸立野と名を改めます。
持ち前のガッツで上り詰め大阪相撲の大関に昇進し黒雲竜五郎と改名しました。
前頭から一躍大関に昇進したのは、七代横綱の玉垣と、この不知火諾右衛門二人のみです。
その当時は、芝居は大阪、相撲は江戸と言われ、相撲の本場が江戸と言うこともあり、
又更に、文政十三年(1830)の十一代将軍 徳川家斎の上覧相撲の盛儀を聞いた
黒雲(諾衛門)は、師匠に了解を求め、天保元年江戸に出発します。
江戸では、神田の本郷金助町の浦風林右衛門を訪ね弟子となり入門後、
天保元年十一月場所に、西幕下二十八枚目に付け出され回向院の江戸相撲での初土俵を踏み、
同時に出雲国松平藩のお抱え力士となったのです。
この時、諾右衛門三十歳、この場所の成績は七勝一敗の好スタートでのデビュー戦です。
幕下十場所を通じ五十七勝十四敗という好成績でありながら七年も昇進しなかったのは、
当時の大阪上がりの力士の成績と昇進が合致しない大阪(ハンデ)であった当時の角界の通説の故だったようです。
江戸相撲八年目に入り天保八年(1837)一月、ようやく西前頭四枚目に入幕し、濃野里諾右衛門と改めました。
入幕したのが三十七歳で全盛期は過ぎていたものの、同年十月には、前頭三枚目に上がり、
手柄山、黒岩という大関・関脇を破り、翌九年二月には、前頭筆頭に昇進、
さらに翌三月場所では、西の大関の稲妻が休場したため関脇追手風、小結鷲ヶ浜を抜いて一躍
西の大関に二人抜きで昇進し、東の大関平石七太夫と相対しました。
小結・大関を経ずに大関になったのは、看板大関以外では異例で、このようなことから、
功績を認められ郷土細川藩のお抱え力士となりました。
この場所は、二勝四敗四休と不振におわり、翌十一月に稲妻が現れたので西の関脇にもどり、この時に、 不知火諾右衛門 と名を改めました。
所以は、領主細川公から、『領地の名物八朔(八月一日)の神火(不知火)は天下の奇観である。郡内に生を受けた汝は、
郷名を轟かすような不知火と名乗れ』 と名を賜ったということです。
翌十一年二月には、大関稲妻の引退を受け大関に復帰して八勝二休の幕内優勝を果たしたのです。
そしてこの年の十一月に、
吉田司家第二十一代善左衛門 追風から故実門人に差し加え、横綱を授与された。八人目の免許を受けたのでした。不知火諾右衛門四十歳の時でした。
当時の横綱は、地位ではなく称号でした。(降格有り)
諾右衛門の戦歴の中で特筆にあたる出来ごとは、天保十四年(1483)九月二十五日の江戸城吹上御殿での十二代将軍 徳川家慶の上覧相撲のでの華々しい光栄です。
その日は、朝から雨が降っていたとのですが、昼ごろからはパット晴れ上がって諾右衛門は上覧相撲土俵の上で、一代の面目を施しました。この歴史的瞬間は諾右衛門の長年の夢がかなった瞬間でした。
その土俵入りは、高根山・黒雲の二人を伴い免許を許された横綱を締め、堂々とした横綱の歩みで土俵に上がり、刻の将軍家慶に天下無双の豪快な土俵入りをお目にかけ、山も崩れんばかりの力技で見るものすべてを魅了したものでした。
いよいよ上覧相撲も最後の結びの一番、剣山対不知火の大関戦となり不知火が力で剣山に勝り寄り切って勝ったのです。
諾衛門は行司より弓を渡されるやいなや、土俵中央に踊りでて自ら堂々たる弓取り式を行いました。
そして時は流れ四十四歳になった天保十五年(1844)一月場所で、諾右衛門は引退を表明しました。
幕内在位八年 十四場所、勝率七割六分二厘、
最高位は、大関幕内最優秀(優勝)一回。
秀ノ山(第9代横綱)、剣山と並んで、天保の三傑と言われました。
身長1m76cm、体重135kgの当時としては堂々たる体格でした。
引退後は、師の恩を返すため大阪に戻り、湊諾右衛門を名乗り大阪相撲の頭取となり門下の養成に専念し、
優れた弟子を数多く生み出し江戸相撲に送り出しました。
中でも最も有名なのが第十一代横綱不知火光右衛門(熊本県大津下町出身)です。
不知火光右衛門は又後日、ここで、ご紹介致します。
そして嘉永七年(1854)七月二十四日没、五十四歳でした。
辞世の句は
こわれても かたちは失な露の玉
史跡
墓所は、生地の宇土市栗崎の山の中腹に、近くに住む子孫の佐久間家の墓地にあります。
熊本県宇土市の教育委員会では、昭和五十一年五月に、市の文化財に指定し保護に努められてます。
初代若乃花が大関時代に詣でたこともあります。
この様な歴史を後世につたえなければ、二度と熊本から横綱が誕生することはないでしょう・・・・・
みなさん、墓所にいってみてください!
よろしくおねがいします。
2008年02月27日
大空武左衛門 (おおぞら ぶざえもん)


大空武左衛門
上益城上田所村(現上益城矢部町)の出身です。
矢部町の戸屋野にある墓石の記事から逆算すると
寛政八年(1796)の生まれ、文政十年五月に
細川藩侯のお供をして江戸に上がった時は
20歳か22歳であったという説がある。
この説なら文化三年か五年生まれである。
細川藩のお抱え力士となり、文政十年五月、
藩主斉護公の参勤交代のお供をして江戸に上がる。
年寄り勝ノ浦の門人となって大空武左衛門と名乗った。
そして同年十一月場所にたった一度の土俵入りだけで、
一度も取り組みはしなかった。
番付にも乗らず、人目につくことを嫌い早々と翌年
帰郷してしまったという。
江戸の町に現れた時、釈迦ケ嶽雲右衛門以来の巨人ということで、
その身長は江戸っ子達の肝をひやし江戸中のうわさ話になった。
錦絵もかなり多く描かれた・・・・
その巨人ぶりは錦絵なので宣伝され、吉田司家にある画像には
『身丈七尺五寸(2m27cm)説が有力です』
史跡
墓所は、上益城郡矢部町田所戸屋野の山中にあり、
台石を三段に重ねられて、七尺五寸に高さにしてあります。
逸話
十歳ばかりの時、矢部の浜町に行こうと思って小原までくると、
大きな牛が道を塞いで通れなかったとき、村人が困っていると、
武左衛門は平然と牛をまたいで歩いていった逸話が残ってる。
江戸への道中で立っている牛を跨いだので、細川藩公から、
『牛跨(うしまたぎ)』という名をもらった。
2008年02月27日
大山沢右衛門 雲早山森之助

注】写真は雲早山関の物です。
大山沢右衛門
土俵歴
出身地は不明。
寛政十一年(1799)十一月、最初から東大関に付け出された。
翌十二年四月場所も大関で荒滝と改めた。
寛政十二年十月引退しました。
雲早山森之助
土俵歴
天明七年(1787)天草郡二江村現天草郡五和町に生まれ、
文化五年(1808)大阪から江戸に行きました。
勝ノ浦与一右衛門の弟子になり、翌六年二月、轟滝之助と名乗って
東幕下十四枚目に登場しました。
翌十月には、東幕下十枚目に進んだが成績は一勝二敗一無勝負六休
文化八年十一月場所は再び東幕下十枚目に進み、
成績は九勝一預かりの好成績をあげ雲早と改めました。
文化九年四月場所は東幕下六枚目で全休、
十一月場所は東幕下一枚目で六勝四敗、
翌十年十一月東前頭八枚目に入幕した。
負け越したのは、最後の場所となった文政六年十月のみで、
十一年間十七場所の長い幕内の在位中全休二場所、負け越し一場所のほかは、
ほとんど毎場所好成績をあげ、勝率は六割七分二厘、関脇以下で終わりました。
強豪力士の一人です。
文政七年一月引退しました。
最高位は小結。
文政八年(1825)一月二日没、39歳の若さでした。
2008年02月26日
2代目 不知火光右衛門

二代目 不知火光右衛門
土 俵 歴
安永4年(1775年)玉名郡下村平野(現玉名市)の平野半兵衛の子として生まれる。兄弟は三人であったといいます。
21歳で、大阪の陣幕長兵衛の弟子となり、寛政7年(1795年)江戸に出て八ツヶ峰往右衛門の弟子となり、翌8年10月、磐石荒五郎と名乗って東小結に付け出された。ときに22歳であった。同場所は四勝四敗一預かり一休の成績。
翌9年3月には東関脇に進み、同場所は八勝一敗一休の好成績で、これは当時無敵の強豪と謳われた雷電為右衛門と同成績であった。当時は優勝制度がなかったが、今日ならこの磐石と雷電による優勝決定戦が行われるところであった。
この好成績にもかかわらず翌10月には東小結に下げられている。同場所の成績は五勝三敗二休、なお、この場所から不知火光右衛門と改めた。
寛政10年(1798)3月には東大関に進み、7日目まで勝ち放しだったが、8日目に千田川に、9日目に雷電に敗れて二敗した。しかし、七勝二敗一休と大関の貫禄を示した立派な成績であった。にもかかわらず翌10月には、木幡山が看板大関に付け出されたため一場所で大関の座を譲り、東関脇に下げられている。同場所は三勝三敗一無勝負三休であった。
その後、同12年10月に引退するまで小結、関脇と三役をつとめ、幕内の在位5年、八場所を一度も平幕に落ちなかった強豪である。最高位は大関で、幕内の勝率は六割六分七厘、大関だけの勝率は七割七分八厘となっている。文化元年(1804)7月14日没、30歳。
史跡
お墓は玉名市、唐平(とうのひら)にあり、碑面には次のとうり刻されている。
文化元子年
(表)不知火光右衛門
7月14日
下村若者中
浅霧茂助
緑藤楡不毛
国見嶽梶右エ門
(裏)矢剣清次
清之浦和助
八島喜三
口関武三
龍門金七
戦後、元横綱双葉山とその弟子不動岩(後述)がこの墓に詣でています。
逸話
下村で引退相撲が行われたときに、御花に出された米五俵を置座にのせたままかかえていたという
いわゆる大津の横綱光衛門ではありません4名いる不知火の内2代目の関取です。
2008年02月26日
呉服山阿蘇右衛門 大空源太夫

この両関取の写真は、残念ながら見つかりませんでした。お持ちの方は、御連絡ください!
呉服山(くれはやま)阿蘇右衛門
土 俵 歴
出身地は不明。安永7年(1778年)10月に東小結に付け出されました。翌年8年3月に引退しました。
幕内の在位は一場所で、最高位はこの東小結が最高位での引退でした。
大空源太夫
土 俵 歴
宝暦12年(1762)山鹿郡新町(現鹿本郡鹿本町来民)の作野伊平の子として生まれ、兄弟七人でした。
大阪で小野川嘉平次の弟子となり、江戸に出て寛政3年(1791)10月、七ツ島源太夫と名乗って東幕下十二枚目に付け出されました。同6年7月、大空源太夫と改め、同年11月、東前頭五枚目に入幕した。
入幕した場所は四勝四敗二引き分けの五分ので、千田川、鳴滝と引き分けを取ったほどで注目されました。同7年3月場所は同じ位置で三勝一敗一引き分け、同8年10月場所は東前頭二枚目で二勝四敗三引き分け一預かりでした。幕内中軸で活躍し、同9年3月引退した。37歳の時でした。
江戸相撲の幕内の在位は三場所で最高位は前頭二枚目。
寛政12年(1800)3月28日没、39歳の時でした。・・・・・・(はやすぎますよね)
関 連 史 跡
(1) 東京本所元町回向院にお墓があったことが夢跡集で書かれています。
(正) 大雲乗空信士
(右) 寛政十二庚申三月廿八日
俗名 大空源七
行年三十九歳
(左) 年寄 八の峯玉右衛門
世 仝 藤嶋甚平
話 仝 不知火光右衛門
人 大阪住人木村庄之助
(裏) そら見ても と朧月
借(ママ)しむべし花乃大空霞あり
〇智 借りは惜の誤植と
〇式 (〇印不明) 思われる
(台)相
撲
中
墓石左面に見られる世話人中不知火光右衛門は、次にご紹介する不知火光右衛門のことで、この寛政12年3月は現役で、郷土の先輩大空源太夫の墓石建立の世話をしたことを物語っています。
(2) 鹿本郡鹿本町来民の招魂祭場には祈念碑があり、碑面には次のとおり刻されています。
(正)大空源太夫祈念碑
(右)〇號大空源太夫 〇 〇 〇人也其名鳴四海吉田 〇 〇實力量 関脇許之横
綱其証明亍錦繒寛政十二年三月廿八日卒于江戸年三十九十文字文太良慕君之徳建記念碑 其事至急〇 其記概略
(左)明治二拾三年
四月十三日建設
現鹿本郡鹿本町来民の出身で明治の中期に大空の後継者になろうと大阪相撲に入った十文字文太朗ほか有志が大空源太夫の徳を慕って、明治23年4月13日に建てたものである。ついでながら、この十文字文太朗の墓は鹿本町来民の正光寺にあります。
2008年02月25日
岸石岩右衛門 大山源太左衛門 鏡山増右衛門

この三関取の資料写真は御座いませんので勧進相撲の絵図(錦絵)を御覧ください
岸石岩右衛門
土 俵 歴
出身地は不明。宝暦十一年(1761年)十月、岸石浦之助の名で東幕下一枚目に登場したが同場所は全休。
翌十二年三月には、岸石岩右衛門と改名し東前頭二枚目に入幕した。同場所は一勝五敗二休と不振、翌十三年四月場所は西幕下五枚目に落ち同場所は全休。同年十月引退した。
幕内の在位は一場所で、最高位は前頭二枚目。
大山源太左衛門
土 俵 歴
相撲今昔物語に「生国は肥後長洲といえるところの産なり」とあることから現在の玉名郡長洲町の出身と思われます。
また同書には、大空円右衛門の弟子とあり、陣幕長兵衛の弟子の部にも記されてます。
明和二年(1765年)三月、江戸に出て芝明神の相撲に大山源太左衛門と名乗って東関脇に付け出された。同場所は一勝七敗。
同年十月には東前頭三枚目に下がり、同場所響灘源太左衛門と改めた。同場所も一勝四敗三休と不振で大阪に帰ってしまった。
同四年(1767年)には大阪で大山と名乗って西大関をつとめ、以後、安永年間から天明元年まで十五年間、上方(京都、大阪)の幕内上位で活躍、上方では相当の強豪、実力者であったようです。
この間、安永三年(1774年)十月、同四年三月、同十月、同七年三月の四場所は江戸に出て幕下でとっているが、江戸では全般に不振であった。天明元年、大阪で前頭十四枚目限りで引退して二代目陣幕長兵衛を襲名し、大阪屈指の大部屋である陣幕部屋を守りたて、同八年(1779年)まで頭取(年寄)をつとめました。
江戸相撲の幕内の在位は二場所で、最高位は関脇。
鏡山増右衛門
土 俵 歴
出身地は不明。陣幕長兵衛の弟子で、安永六年(1777年)十月、東関脇に付け出された。
翌七年三月には鏡ケ嶽増右衛門と改めた。翌八年三月には東小結。天明二年(1782年)十月引退した。
幕内の在位は三場所で最高位は関脇。
平成20年2月25日(月)
本日のNPO活動報告
熊本菊池郡大津町【不知火光衛門の生まれ故郷】の、教育委員会事務局の室長様に面会し大津町に相撲文化で、お役に立てることが出来ないか相談してきました。
まずは、つつじ祭りの子供相撲を見学に行くお約束をし来年度行事からイベント参加出来るよう頑張っていきます。
2008年02月23日
荒滝五太夫

出身地
出身地については豊後(大分)という説もありますが、延享年中(一七四四年~一七四七年)吉田司家第十七代善左衛門追風から故実門人を許されたときの証状には「肥後国産」となっていること、
芦北郡津奈木町赤碕の日羅将軍神社の下には墓があり、さらに五代目の子孫という同町の佐々木氏方には超大型の位牌が安置されています。
佐々木氏夫人の「私が聞いた五太夫の話」によると、七歳か八歳の頃、石垣を築いている大人四、五人が一つの石をもてあましているのを一人で運んで並べてしまい、ほうびにもらった黒砂糖の四斗樽を軽々と背にくくりつけて帰ったという怪力ぶりの話も伝わっています。
以上のような点から考えて、出身地は現芦北郡津奈木町赤碕とみてよいでしょう。
竹島甚四郎の弟子で、身長は六尺五寸(194m)もあったといわれています。
姫路酒井藩のお抱え力士でした。
宝暦十年(一七六〇)十月荒滝森右衛門と名乗って幕下東二枚目に登場し、翌十一年十月入幕、荒滝五太夫と改め、一躍東関脇となりました。
地位及び成績
入幕の場所は四勝四休で土つかず、翌十二年三月場所は東大関に進み、五勝三休で再び土つかずで大関の貫禄を示し
幕内最優秀成績。
翌十三年四月場所は東に大、西に春日山という一時的飛び入りのいわゆる看板大関がおかれたため東関脇に下げられたが、
六勝一引き分け一休で前場所に引き続き土つかずで幕内最優秀成績。
この二場所は、今日でいえば幕内優勝の掲額にあたります。
明治四年三月は東小結で、場所後に引退しました。
幕内の在位は約十年で十四場所、最高位は大関で、勝率は六割一分五厘(大関だけなら十割の負け知らず)という実力大関でした。
安永二年(一七七三)正月二十五日没
荒滝五太夫の遺言
『おれの死後に建てられた墓石が西の方に傾いたら、西方より跡を継ぐ名横綱が出る』(大意)という言葉が伝えられるが、荒滝が大関を張った、ちょうど二百年後に赤崎の西の方 牛深市深海町出身の栃光関が現れみごとに大関になった。
逸話
現役の時、御花にもらった四斗樽の酒樽を片手で持ち上げ悠々と飲み干した。
相撲をしようとしたが、まわしが無かったので青竹をしごいて代用した。
お母さんが、庭で風呂に入って居た所に夕立がきて、五太夫関に助けを求めたところ風呂桶ごと抱えて家の中にいれた。
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2008年02月22日
大空円右衛門

大空円右衛門
土 俵 歴
出身地は不明。
出家の出身で、のち僧籍から転向して竹島甚四郎の門人となり、姫路酒井藩のお抱え力士となりました。
寛延年中(一七四八年~一七五〇年)吉田司家第十七代善左衛門追風から故実門人を許されています。
宝暦六年(一七五六)五月、小結付け出しで、初土俵を踏み、同八年に江戸入りし、同年三月東幕下三枚目(幕下の十枚目までは今の十両、以下同じ。)に付け出されました。
同八年十月、東前頭四枚目に入幕したが、次の場所幕下三枚目に落ち、十二年三月、東前頭四枚目に再入幕した。三場所幕内にいて、明和元年(一七六四年)十月再び幕下三枚目に落ち、翌年三月と五年九月の二場所幕下に在位し、同六年三月引退しました。
江戸相撲の幕内の在位は四場所で、最高位は前頭二枚目。
宝暦十一年五月、大阪場所で同じ出家からの転向者大童子峰右衛門と対戦、大空の腰くだけで大童子の体力に凱歌があがったが、当時評判の好取組であったという事です。
子明山人は、相撲今昔物語で、「大空は上手なれども元来美男にて女難多く、この相撲腰よりくだけたり」と書いています。
大空の子孫の竹村さんは・・・・・「錦絵から抜け出したようないい男だったときいている。」といっていた。
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2008年02月21日
不知火光右衛門【初代】

不知火光右衛門【初代】
熊本県の郷土力士の中で不知火の名前がついた力士は4人います。
その 初代 不知火光右衛門が、この人です。
出身地は不明
出家の出身で、竹島甚四郎(吉田司家の故実門人)の門人で、はじめ沖の助という名前でした。
寛延年中(1748年~1750年)、司家第十七代 吉田善左衛門追風 から故実門人を許されました。
宝暦七年(1757年)、江戸に上り姫路酒井藩のお抱え力士となりました。
その年の十月、江戸相撲の第一号の番付けに東前頭四枚目に付け出されました。
江戸相撲幕内在位は、六場所で最高位は前頭三枚目でした。
宝暦十三年三月引退
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2008年02月21日
【郷土熊本の出身の幕内力士】

この書庫では江戸時代から代々の幕内力士をご紹介しています
阿蘇ヶ嶽桐右衛門
江戸相撲は宝暦七年十月場所から始まります。
江戸時代に名を残す郷土幕内力士は17名いました。
まず第1回は、番付け表の出来る前の力士 大関阿蘇ヶ嶽桐右衛門を、ご紹介いたします。
出身地
『御城(熊本城)下より二里はかり、岩尾村といへる所が我が親の故郷なり』とあります。【相撲今昔物語(子明山人著)】
正確な場所は、解りませんが、阿蘇郡説と矢部町説があるようです。
元文(1736年~1740年)の頃、関西に上り、13歳で上方(京都、大阪)相撲に入りました。
寛保元年(1741)五月、大阪堀江の夏場所で関脇付け出しで初土俵を踏む。
身長は、約188cm 体重150kgの大男であった。
延享年中(1744年から1747年)まで、吉田司家 第十七代追風から故実門人を許されている。
【故実門人(吉田司家の相伝故実伝授された者・力士、行司など功労顕著な者に授与されてきた。)】
延享元年(1744年)京都二条梅津の夏場所と、寛延二年の(1749年)十月の長崎巡業では、
東の大関丸山権太左衛門に対峙して西の大関を務めた。
阿蘇ヶ嶽桐右衛門の墓は、熊本市西子飼町1-1忍法寺に在ります。
逸 話
篤実で、よく仁悲の心が深く、貧しいものを見れば誰にでも金銭を施したそうです・・・・・
相撲今昔物語には、「その剛勇なる事、竹を縄になへるの力量なり、
長背抜群世の人に越えたり云々」とある。
吉田司家の土俵で四股を踏んだとき、
足が土俵にめりこむほどであったという事です。
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2008年02月20日
【宮本プロが逆転V】
【宮本が逆転V】男子ゴルフ←記事へ
宮本が逆転V、石川は5位に・男子ゴルフ最終日
男子ゴルフツアーの今季開幕戦、東建ホームメイト・カップ最終日は20日、三重県東建多度CC名古屋(7062ヤード、パー71)で行われ、1月にプロ転向、今回がプロとしてツアーデビュー戦の石川遼(16、東京・杉並学院高2年)は通算3アンダーで5位タイだった。6アンダーで首位タイ発進したが4バーディー、3ボギー、2ダブルボギーの74とスコアを落とした。
首位と3打差の4位でスタートした宮本勝昌がボギーなしの5バーディー、66で回り8アンダーの276で逆転優勝、昨年8月のKBCオーガスタ以来、ツアー通算7勝目を挙げた。優勝賞金は2200万円。前日首位タイの手嶋多一が7アンダーで2位。
石川は5位に・男子ゴルフ最終日
男子ゴルフツアーの今季開幕戦、東建ホームメイト・カップ最終日は20日、三重県東建多度CC名古屋(7062ヤード、パー71)で行われ、1月にプロ転向、今回がプロとしてツアーデビュー戦の石川遼(16、東京・杉並学院高2年)は通算3アンダーで5位タイだった。6アンダーで首位タイ発進したが4バーディー、3ボギー、2ダブルボギーの74とスコアを落とした。
首位と3打差の4位でスタートした宮本勝昌がボギーなしの5バーディー、66で回り8アンダーの276で逆転優勝、昨年8月のKBCオーガスタ以来、ツアー通算7勝目を挙げた。優勝賞金は2200万円。前日首位タイの手嶋多一が7アンダーで2位。

宮本が逆転V、石川は5位に・男子ゴルフ最終日
男子ゴルフツアーの今季開幕戦、東建ホームメイト・カップ最終日は20日、三重県東建多度CC名古屋(7062ヤード、パー71)で行われ、1月にプロ転向、今回がプロとしてツアーデビュー戦の石川遼(16、東京・杉並学院高2年)は通算3アンダーで5位タイだった。6アンダーで首位タイ発進したが4バーディー、3ボギー、2ダブルボギーの74とスコアを落とした。
首位と3打差の4位でスタートした宮本勝昌がボギーなしの5バーディー、66で回り8アンダーの276で逆転優勝、昨年8月のKBCオーガスタ以来、ツアー通算7勝目を挙げた。優勝賞金は2200万円。前日首位タイの手嶋多一が7アンダーで2位。
石川は5位に・男子ゴルフ最終日
男子ゴルフツアーの今季開幕戦、東建ホームメイト・カップ最終日は20日、三重県東建多度CC名古屋(7062ヤード、パー71)で行われ、1月にプロ転向、今回がプロとしてツアーデビュー戦の石川遼(16、東京・杉並学院高2年)は通算3アンダーで5位タイだった。6アンダーで首位タイ発進したが4バーディー、3ボギー、2ダブルボギーの74とスコアを落とした。
首位と3打差の4位でスタートした宮本勝昌がボギーなしの5バーディー、66で回り8アンダーの276で逆転優勝、昨年8月のKBCオーガスタ以来、ツアー通算7勝目を挙げた。優勝賞金は2200万円。前日首位タイの手嶋多一が7アンダーで2位。
2008年02月19日
【15年式 156GTA】
ヤフーオークション出品ページへ
◆レースモデルに付けられた「GTA」の名を冠するアルファロメオ「156GTA」が登場! 3.2リッターV6を搭載、ジオメトリーも変更されたアシを持つスポーティセダン 新車価格 アルファロメオ156GTA(6MT)¥544.0万円◆注意現状販売・ノークレーム・ノーリターンでお願いします。【出来るだけ現車確認をお願いします】試乗も出来ます。
【スペック】全長×全幅×全高=4430×1765×1400mm/ホイールベース=2595mm/車重=1420kg/駆動方式=FF/3.2リッターV6DOHC24バルブ(250ps/6200rpm、30.6/4800rpm)/車両本体価格=544.0万円 GTAの“A”は、軽量化を意味する“Alleggerita”のこと。1965年に登場した初代GTAは「ジュリアGT」のエンジンとメカをモディファイ。アルミ、マグネシウム、亜鉛合金などの軽量金属でボディパネルをつくり、車重が950kgから745kgに落とされた。
◆新車並行車とわいえ、メンテナンス環境が整っている方には、お買い得だと思います。エクリプスナビ・ETC付き!試乗も出来ますので、お気軽にお問い合わせ下さい。熊本県熊本市からの出品です。◆
◆タイミングベルトも、交換済みです。(59000キロ時)ご安心ください。◆◆200万円最低価格からの売り切りです。是非、オークションに、御参加下さい!。アルファGTAの入門車にいかがですか?◆全国発送・ローンOKです。(事前のローン審査にパスされた方のみ入札可能)現金以外の方は、審査OK後の入札をお願いします!ではスタート!!
◆ 諸費用コミの価格です。今回陸送費用・登録費用コミです。

↑
クリックで拡大します。
※その他、御不明の際は、お気軽にお問い合わせください。
塘居 輝也(トモイ テルヤ)
AU 090-3736-0125
2008年02月14日
貴乃花親方、初マイク緊張 場内説明に「来たな」

貴乃花親方、初マイク緊張 場内説明に「来たな」
若麒麟と白露山の取組で物言いがつき、
貴乃花審判部副部長(元横綱貴乃花)が中入り後に初めて場内説明のマイクを取った。「来たなって思った。緊張した」という貴乃花副部長だったが、「大きい声でお客さんによく聞こえるように心がけました」。
微妙な一番だったが、「白露山が先に土俵を割ったと判断しました」と行司軍配通りに若麒麟の勝ちとする説明を問題なく行った。
2008年02月14日
熊本城と相撲(その1)

【熊本城と相撲】
最近、大相撲界では、度々の不祥事で有史以来の大激震が起こっております。
相撲の品格、横綱の品格が改めて問われております。
そんな中で、私たちNPO法人行司では、日本の数ある、お城の中で熊本城ほど
相撲に関わった、お城は無いという史実を、吉田司家資料に基ずき正確な情報
を発信して参ります。
実は、横綱は、現再建中の熊本城本丸御殿で誕生したのです。
記録には、天明九年(西暦1789年)一月、肥後藩第八代藩主
細川斎滋(なりしげ)公に、吉田司家十九世 追風(吉田 善左衛門)が呼ばれ、
兼ねてから温めていた、横綱制度を発案したことを上申(じょうしん)し、その許可を得、同年3月細川藩の参勤交代に随行し、寛政元年4月 江戸に到着し同年十一月 大相撲本場所の回向院(えこういん)の土俵上で、谷風梶之助及び小野川喜三郎に、横綱を免許したのです。

写真は、熊本城本丸で横綱を誕生させた御奉公記録です。(十九世 吉田追風の日記)
■天明3年(西暦1783年)から寛政11年(西暦1799年)までの日記より

肥後細川藩主 細川斎滋が承認した。十九世 追風が考案した。横綱の作り方の絵図
■天明8年(西暦1788年)9月19日 絵図作成
吉田司家に関する記事の転載及び写真の無断使用はしないでください。NPO法人行司
2008年02月14日
『恋の季節』なので・・・

今日は、すこし話題を変えて・・・・・
恋の季節なので、恋人とのマンネリ解消ランキング。
『恋人とのマンネリを解消する方法ランキング』
「いつもと同じ…」 そんな二人に効くのは「非日常」な時間
マンネリ(マンネリズム)を辞書で調べてみると、『思考・行動・表現などが型にはまり、新鮮さや独創性がなくなること(goo辞書)』とあります。恋人との関係で「マンネリ」が続くと、相手への気持ちまでもがダウンしてしまうことも。このマンネリを解消する方法としてみんながとっている行動の第1位は《二人で旅行に行く》でした。付き合い始めたころの新鮮な気持ちを取り戻すためには普段と環境を変えるのがイチバン、という人が多いようです。
恋人との仲が安定するのは二人の距離が近くなった証拠ですが、安定期間が長く続くほど陥りやすいのが「マンネリ」な状態。日々の会話や週末のデートに新鮮味がなくなってきたら、思い切って《二人で旅行》に出かけてみては? 初めて行く場所や普段と違う体験をすることで会話のネタができて話題が広がったり、相手の良いところを再発見したりと、マンネリな状態を変えるきっかけになるかもしれません。旅行に行く時間のとれない人は、《いつもと違う場所でデートする》《サプライズプレゼントをする》などでも効果がありそう。
最初はできるだけ一緒に時間を過ごしていた二人でも、だんだんとお互いの時間や人間関係を尊重し合って別行動が多くなることも多いのでは。相手に干渉しすぎるのも気持ちが冷める原因のひとつなので気をつけたいですが、気がついたら共通の話題がなくなっていた…なんてことになっていませんか?
相手と長く一緒に過ごしたいからこそ、《二人で新しい趣味にチャレンジ》してみてもよいかもしれませんね。
gooランキング ←記事へ
解消法 TOP10
みなさんのマンネリズムになった時の解消方法は?・・・
2008年02月13日
大阪府立体育会館売却「待った」
横綱朝青龍関 ←記事へ

横綱朝青龍(27=高砂)が、売却が検討される春場所の会場・大阪府立体育会館存続に立ち上がる。12日、埼玉・草加巡業(草加市スポーツ健康都市記念体育館)で、橋下徹大阪府知事直轄の改革プロジェクトチームの試案に同会場の廃止・売却が盛り込まれたことに反発。反対運動を起こすことを呼びかけた。大好きな大阪の思い入れのある会場だけに、簡単に納得するわけにはいかない。
橋下知事の体育会館売却案を聞いた朝青龍が、驚きに目を丸くして、まくし立てた。
朝青龍 えっ、本当? どうなるの? 壊すの? (売却すると聞き)
天下の大横綱といえども、個人での体育館買収は夢のような話。それでも、思わず口にしてしまった理由がある。
以前から大阪が大好きだと公言する背景には、毎年積み重ねてきた思い入れがあった。
ところが、その千秋楽に土俵に上がり、自分に向かって「大阪が元気になりました。ありがとう」と声をかけてくれた橋下知事からの仕打ち。橋下知事は体育会館廃止案以外にも、春場所優勝力士に贈る知事杯副賞の米(240キロ)と牛肉(15キロ)を昨年より一気に半減させた。政治の問題でもあり口を挟むのはよくないと思いながらも不信感は募る。報道陣に「みんなで反対運動しようよ」と呼びかけたほどだ。
14日に大阪府の担当者が日本相撲協会を訪れ、正式な説明がされる予定。今後は流動的だ。それでも、朝青龍が「日本一、声援が熱くて力になる」と話したファンの声を聞き続けたのは体育会館だ。3月に終わった春場所でも優勝し「まいど! おおきに」と大阪弁で感謝の気持ちを伝えたばかり。1953年(昭28)から春場所を行う、最も伝統がある「西の聖地」の存続へ横綱として援護射撃をするつもりだ。【来田岳彦】
[2008年4月13日9時1分 紙面から]
<大相撲>春巡業が終了 両横綱そろい客の入り上々
4月13日18時42分配信 毎日新聞 ←記事へ
大相撲の春巡業が13日の静岡県藤枝市で終了した。先月30日の伊勢神宮奉納から7カ所で開かれたが、両横綱がそろい客の入りは上々。藤枝巡業はチケットを完売し4000人(主催者発表)で満員だった。春場所で左足を痛めたという朝青龍も先月末の宇陀巡業(奈良県)以来となるけいこ土俵に顔を出し、しこを踏むなど軽い運動で汗を流した。
「まだ違和感があるが番付発表までには間に合う」
と朝青龍。24日に夏場所番付発表、5月11日に夏場所初日を迎える。

大阪府立体育会館売却「待った」
横綱朝青龍(27=高砂)が、売却が検討される春場所の会場・大阪府立体育会館存続に立ち上がる。12日、埼玉・草加巡業(草加市スポーツ健康都市記念体育館)で、橋下徹大阪府知事直轄の改革プロジェクトチームの試案に同会場の廃止・売却が盛り込まれたことに反発。反対運動を起こすことを呼びかけた。大好きな大阪の思い入れのある会場だけに、簡単に納得するわけにはいかない。
橋下知事の体育会館売却案を聞いた朝青龍が、驚きに目を丸くして、まくし立てた。
朝青龍 えっ、本当? どうなるの? 壊すの? (売却すると聞き)
『オレが買おうかな…。』
天下の大横綱といえども、個人での体育館買収は夢のような話。それでも、思わず口にしてしまった理由がある。
「一番、思い出がある会場なんだ。横綱として初めての場所が大阪だったし、
全勝優勝もしたし…」。
全勝優勝もしたし…」。
以前から大阪が大好きだと公言する背景には、毎年積み重ねてきた思い入れがあった。
ところが、その千秋楽に土俵に上がり、自分に向かって「大阪が元気になりました。ありがとう」と声をかけてくれた橋下知事からの仕打ち。橋下知事は体育会館廃止案以外にも、春場所優勝力士に贈る知事杯副賞の米(240キロ)と牛肉(15キロ)を昨年より一気に半減させた。政治の問題でもあり口を挟むのはよくないと思いながらも不信感は募る。報道陣に「みんなで反対運動しようよ」と呼びかけたほどだ。
14日に大阪府の担当者が日本相撲協会を訪れ、正式な説明がされる予定。今後は流動的だ。それでも、朝青龍が「日本一、声援が熱くて力になる」と話したファンの声を聞き続けたのは体育会館だ。3月に終わった春場所でも優勝し「まいど! おおきに」と大阪弁で感謝の気持ちを伝えたばかり。1953年(昭28)から春場所を行う、最も伝統がある「西の聖地」の存続へ横綱として援護射撃をするつもりだ。【来田岳彦】
[2008年4月13日9時1分 紙面から]
<大相撲>春巡業が終了 両横綱そろい客の入り上々
4月13日18時42分配信 毎日新聞 ←記事へ
大相撲の春巡業が13日の静岡県藤枝市で終了した。先月30日の伊勢神宮奉納から7カ所で開かれたが、両横綱がそろい客の入りは上々。藤枝巡業はチケットを完売し4000人(主催者発表)で満員だった。春場所で左足を痛めたという朝青龍も先月末の宇陀巡業(奈良県)以来となるけいこ土俵に顔を出し、しこを踏むなど軽い運動で汗を流した。
「まだ違和感があるが番付発表までには間に合う」
と朝青龍。24日に夏場所番付発表、5月11日に夏場所初日を迎える。
2008年02月12日
熱愛発覚パワーに変えた!

熱愛発覚パワーに変えた!古閑、7位好発進!
(サンケイスポーツ) ←記事へリンク
スタジオアリス女子オープン第1日(11日・兵庫県花屋敷GC、6480ヤード、パー72)プロ野球の千葉ロッテ・西岡剛内野手(23)との親密交際が発覚した古閑美保(25)が、1バーディー、1ボギーの72で回り7位。前夜(10日)に西岡から「恥ずかしいスコアを出さないように」と激励電話を受けての好発進だった。辛ヒョンジュ(27)=韓国=が4アンダーの68で首位に立った。
異様なムードを“愛のホットライン”が吹き飛ばした。強風の中、イーブンパーの72にまとめ7位。ホールアウトした古閑がホッと一息ついた。
「きょうは、いやーな緊張でした」
天真爛漫(らんまん)な25歳の乙女にも、この日の空気は少し重かった。同日発売の写真週刊誌『フライデー』にロッテ・西岡との親密交際が報じられ、スポーツ紙も大きく取り上げたからだ。スタート前の朝に同誌と新聞を購入。「いろいろ書いていましたね」と面食らっていた。
会場では他の選手から「載っていたね」と言われる。観客の「フライデー、フライデー」のヒソヒソ話も耳に入った。ラウンド中は知人のカメラマンに「お騒がせしてすみません」と声をかける一幕も…。
そんな重圧を西岡との前夜の“ラブコール”が軽減してくれた。「年下だから、かわいい」という交際相手に「明日、載るよ」と電話すると、「恥ずかしいスコアを出さないように」と励まされた。「自分(西岡)は100以上たたくのに」とおどけたが、「(交際を)書かれたから成績が悪かったって言われたくない」と発奮して、まずまずの結果を出した。
2番(パー5)で、残り68ヤードの3打目(SW)をピン80センチにつけてバーディー。6番(パー4)でボギーをたたいたが、残り12ホールをすべてパーで乗り切った。
「それ(熱愛報道)はそれで関係ない。優勝目指して頑張ります」。今季初Vへ。“美保の恋人”からのラブメッセージが後押しする。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
普天王関も古閑選手も、やはり春ですねーーー!
御ふたか共に、末永くお幸せに!(古閑さんは、まだ気が早いかも)
御ふたか共に、末永くお幸せに!(古閑さんは、まだ気が早いかも)
がんばれ普天王関!
がんばれ古閑プロ!
がんばれ古閑プロ!
2008年02月11日
中古車は21年ぶりの低水準

写真は、30万円のインドの新車です。
完全に日本車のお株を奪われてます。
もう道路どころではありません。
車が減れば道路は要らなくなります・・・・・
なぜ本当に必要な所に、資金が行かないのでしょう?
この国は、どこまでおちていくのでしょう・・・・・
基幹産業が衰退すれば、国勢も衰えます。
中古車販売も低迷。21年ぶりの低水準というくらい家計は苦しいのだろう>中古車は21年ぶりの低水準
中古車販売も低迷。21年ぶりの低水準というくらい家計は苦しいのだろう>中古車は21年ぶりの低水準
日本自動車販売協会連合会(自販連)が10日発表した2007年度の中古車販売台数(軽自動車を除く)は、前年度比8・3%減の447万3269台と、2年連続で減少した。
1986年度以来、21年ぶりの低水準となった。
■中古車登録台数、2年連続で500万台割れ…07年度
日本自動車販売協会連合会が10日発表した07年度(4 - 3月)の中古車登録台数(新規・移転・変更)は、前年度にくらべ8.3%減の447万3269台となり、2年連続で前年度を下回った。新車需要の落ち込みを反映し、水準も2年連続で500万台割れとなった。
車種別では、乗用車(普通・小型)が前年度に比べ7.4%減の383万8336台、貨物車(普通・小型)が同13.5%減の50万7479台と、いずれも減少した。
乗用車は、普通車、小型車ともに2年連続でマイナスだった。普通車は、前年度にくらべ7.5%減の177万2944台、小型車は同7.3%減の206万5392台だった。
中古車は21年ぶりの低水準
日本自動車販売協会連合会(自販連)が10日発表した2007年度の中古車販売台数(軽自動車を除く)は、前年度比8・3%減の447万3269台と、2年連続で減少。1986年度以来、21年ぶりの低水準。
共同通信
★ヒトコト
中古車販売も低迷。21年ぶりの低水準というくらい家計は苦しいのだろう。
それはそうだ、ガソリンは急激に上がるし、日用品、食料品も軒並み大幅値上げ。
車を買い換えるのは車検もう一回受けてとなるのも当然だ。
今年は、また不況に逆戻りしそうだ。
完全に日本車のお株を奪われてます。
もう道路どころではありません。
車が減れば道路は要らなくなります・・・・・
なぜ本当に必要な所に、資金が行かないのでしょう?
この国は、どこまでおちていくのでしょう・・・・・
基幹産業が衰退すれば、国勢も衰えます。
中古車販売も低迷。21年ぶりの低水準というくらい家計は苦しいのだろう>中古車は21年ぶりの低水準
中古車販売も低迷。21年ぶりの低水準というくらい家計は苦しいのだろう>中古車は21年ぶりの低水準
日本自動車販売協会連合会(自販連)が10日発表した2007年度の中古車販売台数(軽自動車を除く)は、前年度比8・3%減の447万3269台と、2年連続で減少した。
1986年度以来、21年ぶりの低水準となった。
■中古車登録台数、2年連続で500万台割れ…07年度
日本自動車販売協会連合会が10日発表した07年度(4 - 3月)の中古車登録台数(新規・移転・変更)は、前年度にくらべ8.3%減の447万3269台となり、2年連続で前年度を下回った。新車需要の落ち込みを反映し、水準も2年連続で500万台割れとなった。
車種別では、乗用車(普通・小型)が前年度に比べ7.4%減の383万8336台、貨物車(普通・小型)が同13.5%減の50万7479台と、いずれも減少した。
乗用車は、普通車、小型車ともに2年連続でマイナスだった。普通車は、前年度にくらべ7.5%減の177万2944台、小型車は同7.3%減の206万5392台だった。
中古車は21年ぶりの低水準
日本自動車販売協会連合会(自販連)が10日発表した2007年度の中古車販売台数(軽自動車を除く)は、前年度比8・3%減の447万3269台と、2年連続で減少。1986年度以来、21年ぶりの低水準。
共同通信
★ヒトコト
中古車販売も低迷。21年ぶりの低水準というくらい家計は苦しいのだろう。
それはそうだ、ガソリンは急激に上がるし、日用品、食料品も軒並み大幅値上げ。
車を買い換えるのは車検もう一回受けてとなるのも当然だ。
今年は、また不況に逆戻りしそうだ。
2008年02月10日
不知火諾衛門の、お墓まいりに・・・・行って来ました。

今日、私のお墓参りも兼ねて、第8代横綱 不知火諾衛門【諾衛門】のお墓参りに、行って来ました。
私も、宇土市出身ですが・・・・・初めて訪れた場所です。
この墓所は、私の母のお墓のすぐ近くなのです。
旧宇土城跡の近くです。
正直なぜこれほど、有名な横綱の墓所がマイナーになっているのか・・・・悲しい限りです。
墓守さまのおかげで、綺麗に維持はされていましたが、もっとメジャーにしていきたいと思います。
江戸時代,相撲界に宇土市出身の名横綱がいました。「不知火型土俵入り」の創始者,第8代横綱”不知火諾右衛門”です。
諾右衛門は幼名を近久信次と言い,享和元年(1801年)宇土市栗崎町に生まれました。子供の頃から宮相撲をとり,力持ちで有名であったといいます。造り酒屋で働いていた時,近くで火事があり,酒蔵の樽を一人で運び出したというエピソードもあります。
文政6年,大阪相撲の湊由良右衛門に入門して大関まで昇進し,後に,相撲の本場であった江戸相撲にも挑戦して,天保11年(1840年)には横綱の免許を与えられました。3年後,江戸城内で将軍徳川家慶の上覧相撲が催され,この時の土俵入り(不知火型)を描いた綿絵が残されています。諾右衛門の体格は,身長約175cm,体重約135kgという当時としては堂々たるものであったようです。
天保15年に引退し,大阪において湊由良右衛門を継いで大阪相撲の頭取となり,後進の育成に尽力しました。嘉永7年に54歳で他界し,分骨された墓が故郷である栗崎町の小高い丘の中腹にひっそりと立っています。
みなさん、ぜひ1度・訪れてください!
不知火8代横綱郷土は、宇土市の誇りです。
木がせり出してきて削ってありました・・・・・
駐車場は、手前の空き地に在ります。