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2008年02月26日
2代目 不知火光右衛門

二代目 不知火光右衛門
土 俵 歴
安永4年(1775年)玉名郡下村平野(現玉名市)の平野半兵衛の子として生まれる。兄弟は三人であったといいます。
21歳で、大阪の陣幕長兵衛の弟子となり、寛政7年(1795年)江戸に出て八ツヶ峰往右衛門の弟子となり、翌8年10月、磐石荒五郎と名乗って東小結に付け出された。ときに22歳であった。同場所は四勝四敗一預かり一休の成績。
翌9年3月には東関脇に進み、同場所は八勝一敗一休の好成績で、これは当時無敵の強豪と謳われた雷電為右衛門と同成績であった。当時は優勝制度がなかったが、今日ならこの磐石と雷電による優勝決定戦が行われるところであった。
この好成績にもかかわらず翌10月には東小結に下げられている。同場所の成績は五勝三敗二休、なお、この場所から不知火光右衛門と改めた。
寛政10年(1798)3月には東大関に進み、7日目まで勝ち放しだったが、8日目に千田川に、9日目に雷電に敗れて二敗した。しかし、七勝二敗一休と大関の貫禄を示した立派な成績であった。にもかかわらず翌10月には、木幡山が看板大関に付け出されたため一場所で大関の座を譲り、東関脇に下げられている。同場所は三勝三敗一無勝負三休であった。
その後、同12年10月に引退するまで小結、関脇と三役をつとめ、幕内の在位5年、八場所を一度も平幕に落ちなかった強豪である。最高位は大関で、幕内の勝率は六割六分七厘、大関だけの勝率は七割七分八厘となっている。文化元年(1804)7月14日没、30歳。
史跡
お墓は玉名市、唐平(とうのひら)にあり、碑面には次のとうり刻されている。
文化元子年
(表)不知火光右衛門
7月14日
下村若者中
浅霧茂助
緑藤楡不毛
国見嶽梶右エ門
(裏)矢剣清次
清之浦和助
八島喜三
口関武三
龍門金七
戦後、元横綱双葉山とその弟子不動岩(後述)がこの墓に詣でています。
逸話
下村で引退相撲が行われたときに、御花に出された米五俵を置座にのせたままかかえていたという
いわゆる大津の横綱光衛門ではありません4名いる不知火の内2代目の関取です。
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