2008年02月26日
呉服山阿蘇右衛門 大空源太夫

この両関取の写真は、残念ながら見つかりませんでした。お持ちの方は、御連絡ください!
呉服山(くれはやま)阿蘇右衛門
土 俵 歴
出身地は不明。安永7年(1778年)10月に東小結に付け出されました。翌年8年3月に引退しました。
幕内の在位は一場所で、最高位はこの東小結が最高位での引退でした。
大空源太夫
土 俵 歴
宝暦12年(1762)山鹿郡新町(現鹿本郡鹿本町来民)の作野伊平の子として生まれ、兄弟七人でした。
大阪で小野川嘉平次の弟子となり、江戸に出て寛政3年(1791)10月、七ツ島源太夫と名乗って東幕下十二枚目に付け出されました。同6年7月、大空源太夫と改め、同年11月、東前頭五枚目に入幕した。
入幕した場所は四勝四敗二引き分けの五分ので、千田川、鳴滝と引き分けを取ったほどで注目されました。同7年3月場所は同じ位置で三勝一敗一引き分け、同8年10月場所は東前頭二枚目で二勝四敗三引き分け一預かりでした。幕内中軸で活躍し、同9年3月引退した。37歳の時でした。
江戸相撲の幕内の在位は三場所で最高位は前頭二枚目。
寛政12年(1800)3月28日没、39歳の時でした。・・・・・・(はやすぎますよね)
関 連 史 跡
(1) 東京本所元町回向院にお墓があったことが夢跡集で書かれています。
(正) 大雲乗空信士
(右) 寛政十二庚申三月廿八日
俗名 大空源七
行年三十九歳
(左) 年寄 八の峯玉右衛門
世 仝 藤嶋甚平
話 仝 不知火光右衛門
人 大阪住人木村庄之助
(裏) そら見ても と朧月
借(ママ)しむべし花乃大空霞あり
〇智 借りは惜の誤植と
〇式 (〇印不明) 思われる
(台)相
撲
中
墓石左面に見られる世話人中不知火光右衛門は、次にご紹介する不知火光右衛門のことで、この寛政12年3月は現役で、郷土の先輩大空源太夫の墓石建立の世話をしたことを物語っています。
(2) 鹿本郡鹿本町来民の招魂祭場には祈念碑があり、碑面には次のとおり刻されています。
(正)大空源太夫祈念碑
(右)〇號大空源太夫 〇 〇 〇人也其名鳴四海吉田 〇 〇實力量 関脇許之横
綱其証明亍錦繒寛政十二年三月廿八日卒于江戸年三十九十文字文太良慕君之徳建記念碑 其事至急〇 其記概略
(左)明治二拾三年
四月十三日建設
現鹿本郡鹿本町来民の出身で明治の中期に大空の後継者になろうと大阪相撲に入った十文字文太朗ほか有志が大空源太夫の徳を慕って、明治23年4月13日に建てたものである。ついでながら、この十文字文太朗の墓は鹿本町来民の正光寺にあります。
Posted by セレスピード熊本 at 15:50│Comments(0)
│【熊本出身の力士】
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