2008年08月07日
「ひどい」絶句

(時事通信) 8月 6日(水) 9時16分
原爆慰霊碑に献花する人たち。奥は原爆ドーム(6日午前、広島市中区平和記念公園)【時事通信社】
<広島原爆の日>
開発計画に参加の女性科学者、
初めて見た広島 「ひどい」絶句
2008年8月6日(水)13:00
◇63回目 「原爆の日」
米国による第二次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。科学者であることを捨て、酪農に従事した。「自分がつくったものがどんな結果をもたらすか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」。しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。広島は6日、63回目の「原爆の日」を迎える。【平川哲也、黒岩揺光】
「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。そう独りごちると、ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。その後、ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。
「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」
ヒントンさんは広島市のホテルで取材に対し、そう語った。1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。立ち上る人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。最大時で12万9000人を動員した原爆開発計画が結実した瞬間だった。
◇「使われないと考えていた」
「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、請われるまま同計画に参加した。
ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを許可される「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。
しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。
「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをひそめて話した。
◇反核運動に参加、中国に渡り酪農
戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。内モンゴルに移住し酪農を営んだ。消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。
<ヒロシマの記憶――15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>
あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。