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2008年03月01日

十一代横綱 不知火光右衛門

十一代横綱 不知火光右衛門



不知火光右衛門




土 俵 歴

文政8年(1825)3月、合志郡陣内村下町(現菊池郡大津町下町)に生まれました。光衛門関の本名は原野峰松氏です。

 父母は普通の人とあまり変わらなかったのですが、隔世遺伝とでもいうのか、祖父の儀右衛門は体格も優れて、この地方の草相撲で荒牧と名乗り、近隣に名を轟かせていた大関でした。

峰松もその血を享け継いだのか、力が強く、祖父に従って近村の宮相撲を回り飛び入りに出ているうちに、体格も力もめきめき力量をつけ、草相撲の大関を張るようになりました。

そして、熊本にある肥後相撲の半ば職業化した集団に迎えられ、農閑期になると近隣の郷村を興行して歩き、ますます相撲の技も上達してゆき、相手になる者もいなくなったといいます。

「陣内志談」(児島貞熊著、大正6年3月25日発行)によれば、 

「・・・生まれながらにして祖父の力量を禀け継ぎ、剛力無雙幼少の頃より三度の飯よりも好む方にて加うるに身長相貌相協ひ顔立ち好く髪毛あくまで黒く光る源氏の流れを汲みしかと思う程の美男子なれば、遠地近地の宮相撲に往いて方屋に上がると其相撲を見んよりは寧ろ立派なる峰松の男振りを見物すると云う位の人気を集めたりしぞ・・・」とあります。

 やがて、天下の力士を志し、弘化3年(1846)22歳のとき村の郷士坂本十郎左衛門から誘われて大阪に出て、すでに江戸から帰阪していた郷土の先輩である8人目の横綱不知火諾右衛門の部屋に弟子入りし、殿(しん)峰(がり)松と名乗って翌弘化4年(1847)5月大阪場所に初登場しました。

 大阪に、約4年、六場所いて、さらに発奮して嘉永3年(1850)7月場所に江戸へ下り、当時江戸相撲の世話役(取締)筆頭、筆脇をつとめて角界随一の権勢家といわれた境川浪右衛門のもとに弟子入りし、同年11月、殿峰五郎の名で江戸で初土俵を踏み、西幕下三十六枚目に付け出されました。

時に光衛門26歳の初冬でした。 
 この場所の成績は三勝二敗。

幕下十一場所を四十八勝十五敗と好成績をあげましたが、先代不知火同様10人目の横綱雲龍などと同様に大阪のぼりのせいか江戸出身の関取のようには、容易に昇進しなかったそうです。

安政3年(1856)11月、幕下付け出しになってから7年目に西前頭七枚目に入幕、ときに32歳でした。
このとき殿勝五郎と改めました。

細川藩のお抱え力士となったのはいつかというと、嘉永5年3月の「金剛伝」には細川藩の印紋の化粧まわしをつけている絵姿があるので、江戸初登場の嘉永3年には召し抱えの沙汰とともに化粧まわしを藩主から賜ったであろうと思われます。

入幕した場所は、五勝一預かり四休の土つかずで将来の躍進ぶりを思わせ次の安政4年1月には六枚目に進み、ここで不知火光右衛門と改めました。

「不知火光右衛門」の四股名としては前述のとおり宝暦、寛政の光右衛門についで3人目になります。寛政の大関不知火にあやかっての藩主からの命名であったという事です。

その後、毎場所二敗の成績を続け安政5年11月は西前頭一枚目(筆頭)、6年1月には一躍西関脇に上がりました。

11月場所は小結にあがったが六勝一敗一引き分け二休、次場所は同じく小結で八勝一引き分け一休の土つかずの幕内最優秀成績をあげ、万延元年(1860)10月には関脇になりました。 

文久元年(1861)十月場所は、陣幕に一敗したものの、十人目の横綱となった雲龍を倒すなど六勝一敗一預かり二休で、翌二年二月には兄弟子の大関境川の引退で空いた穴を埋めて入幕後十二場所で雲龍と相対して西の大関となりました。

其の時、強敵鬼面山は東小結、大鳴門は前頭筆頭、陣幕は二枚目であり、不知火光衛門の出世は早かったようです。

文久三年(1863)十月、吉田司家第二十二代善衛門追風から故実門人に差し加え、横綱を授与され、十一代の横綱免許を受けたのです

光衛門三十九歳の秋でした。

六年間の間に十三場所在位しましたが、元治元年(1864)四月場所は七勝一敗二休、翌十月場所は七勝一預かり一引き分け一休で、二場所連続して幕内最優秀成績をあげ、現在で云えば、二場所連続優勝に当たる好成績でした。
三場所おいて慶応二年(1866)十一月からは東大関を務めました。

同三年三月場所の四日目、西前頭三枚目の両国梶之助と対戦しました。
両国は小兵ながらも怪力で鬼面山・陣幕までも悩ませる存在でしたが、技名人同士の対戦とあって大変な人気を博しました。

光右衛門は、足取り専門の曲者両国に普通に勝っては面白く無いと思い、足を狙ってきたところを、簡単にあしらい逆に足を取り土俵中央にゴロンと転がしました。

当時の花柳界の相撲甚句には、この取組みを、 『足を取る相撲上手の両国関も足を取られてスッテンコロリン』と、謳いはやされました。

両国は不知火の相撲上手とても褒めていたと言います。

明治二年四月場所、六勝二敗二休の成績を最後に、次の十一月場所は全休し引退を表明しました。

この年は四月場所以降は光衛門はすでに故郷の熊本に帰省しており、熊本の下河原での十日間の興行は、大盛況でした。

幕内の在位は十四年、二十八場所(うち一場所は火災で中止)

勝率は、七割七分三厘、最高位は大関(横綱)

幕内最優秀成績三回(優勝)

好敵手(ライバル)は、雲龍・鬼面山・陣幕・響灘・大鳴門等らですが、雲龍には初顔で一敗しただけで、その後は、六勝して断然光衛門の方が強く、響山にも引き分けは多いが一回も黒星は取られなかったそうです。

鬼面山とは、互角の勝負を観せたそうです。

ただ、陣幕とは十四回対戦して十二敗二引分けに終わり一代苦手としました。

十一代横綱は身長1m76cm、体重124kg、身体の柔らかい中肉中背で組んで良く、離れてよく、技の数も多く、右を差したら磐石といわれました。

その土俵入りは、先代の不知火諾衛門が創始した不知火型をさらに華麗・優雅にしたもので巧妙を極め、

『白鶴の翼を張れるが如し』の形容で、華麗さを極め観る者を魅了しました。

光衛門の土俵入りは歴代横綱の土俵入りの中でも逸品と言われ、明治時代の角界の間では、幕末維新のころのちまたの話題は不知火光衛門の土俵入りの綺麗さについてでした。

その上、光衛門は今で言う大変な美男子(イケメン)で、光衛門を描いた錦絵は飛ぶように売れたといいます。

引退後は、師の恩に報いるため大阪に戻り翌明治三年三月、明治維新後に独立した大阪相撲に加入し不知火諾右衛門と改名して、大阪相撲の約員の推挙により不知火部屋を創設、頭取不知火となって晩年を送り、

良く養父不知火諾衛門の未亡人を世話し、大阪相撲に貢献しました。

同十二年二月二十四日没、五十五歳。

大阪市 天王寺区下寺町の遊行寺に手厚く葬られた。

熊本県下町にも分骨され町民光衛門を偲ぶ憩い集いの場所になっています。

没後、不知火型の土俵入りをしていた吉葉山(四十三代横綱)が現役時代に詣でています。


私見ですが、不知火型の土俵入りをされる方々(横綱)は、不知火型の両横綱の墓前に是非詣でて頂きたいもので御座います。

『現在相撲界のあるのも、すべて諸先輩方の相撲人生の積み重ねによるよる所の功績なのですから・・・・・』






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Posted by セレスピード熊本 at 16:07│Comments(0)【不知火型土俵入起源】
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